「中国は島津氏支配を知らなかった」という都市伝説

八幡 和郎

島津氏はかねてより南西諸島を支配下に入れようとしていた。室町時代の守護は江戸時代の大名のように国内で強い支配力をもっていなかったのが、戦国時代に守護大名化し、支配力を強めたわけで、その延長である。

そこに、琉球王国が朝鮮遠征への軍役分担を豊臣秀吉から命じられ、それを引き受けながら島津氏に一部肩代わりしてもらい、しかも、それを踏み倒したということがあり、さらに、難破した沖縄船を幕府に助けてもらいながらお礼を言わなかったという欠礼もあり、徳川家康は島津氏が琉球に侵攻することを許した。

薩摩軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに本島北部に上陸。あっという間に首里城を陥れ、国王尚寧は鹿児島に連れ去られた。尚寧は3年間もヤマトに抑留され、将軍に接見させられた。

尚寧(Wikipedia)

また、一五条の掟を承認した。そのなかには、中国への関係も薩摩の監督を受けることや、国内で不当な扱いを受けた者が薩摩へ訴えでることが可能なことが書いていた。

島津氏は役人を常駐させて実質的な支配下に置いたが、同時に、王国は形の上で維持した。徳川家康は、琉球に日中貿易を実現する仲立ちを期待した。薩摩は琉球に明に対して交易を認めるように交渉させ、聞き入れないなら数万人の軍勢を福建省に送って軍事的に攻撃することまでほのめかしたが、明は受け入れなかった。

しかも、明は薩摩の支配下に入ったことを不快だとして2年ごとの進貢を10年にいちどにすると嫌がらせをした。

明国は琉球が島津支配に入っても、それを止めようとしたわけでなく、それなら、忠実な従属国として与えてきた恩恵は減らすと言っただけである。それは、朝貢とか冊封とか言ったことが、のちの国際法上の領土要求などにつながるようなものでないということでもある。だいたい、明国は倭寇にやられ放題だったことをみても分かる通り、海上では全く無力だった。

琉球王朝時代の進貢船(Wikipedia)

しかし、そのうちに、2年に1度の進貢を復活させ、島津氏としてはそれなりのメリットが確保できた。明にしても朝貢国が減るのが嫌だったのだろう。また、島津による琉球の日本化政策はトーンダウンされた。ひとつには、琉球を国内の地方政権とするよりは、日本に朝貢する外国と扱った方が国内政治的に効用が高いということがあったし、中国との貿易もうまくいくと思うようになったからだ。

島津氏は、琉球に対するときや中国に対しても、国内での官位が低いと不都合などとして幕府や朝廷に官位を上げさせたりもした。

また、島津氏は奄美群島を直接支配下に置いた。奄美については、古代からヤマトの影響がかなり及んでいたが、日本が混乱期にあるときに、琉球王国が15世紀に併合したのである。奄美と沖縄の間にある与論島と沖永良部島はもともと北山王国に服従していたのを併合したものですが、ついで奄美大島に近い徳之島、さらに、1447年には奄美大島、1466年には喜界島が征服されたので、古くから沖縄の一部だったわけではない。

島津氏は奄美を直轄領化したが、建前としては琉球王国の領域であることをやめたわけではなく、大島郡が設置されて大隅国に編入されたのは1879年の琉球処分のときである。

いずれにせよ、奄美大島では18世紀になってサトウキビの生産が盛んになり、この専売制で得た資金は、薩摩藩が雄藩としてのし上がっていくことを支た。もともとサトウキビを生産していたのを薩摩が収奪したのではない。

そして、明治維新まで、薩摩藩に支配され、江戸の将軍にも朝貢使節を送る一方、国王は明や清に朝貢し皇帝から冊封を受ける関係になった。

ただし、島津氏に支配されている実態を中国側にかくしていたというのは俗説だ。琉球王国には中国人官僚が多くいるのだからありえない。冊封使が来たときは、薩摩の役人は姿を見せないようにしたが、あからさまだと冊封使たちも立場がないだろうということにすぎない。見て見ふりをすることで国際平和を保つことはいまでもよくあることだ。

朝貢貿易の利益のかなりが島津氏のものとなったこともいうまでもないが、江戸時代も中期になると、この進貢貿易は赤字になっていたようで、室町時代ほどの利益はなかった。

ここで、琉球王国における内政をちょっと振り返ると、尚真王(在位:1477~1526年)、羽地朝秀(摂政任期:1666~1673年)、蔡温(1682~1762年)が重要な政治家だ。

羽地朝秀は、島津氏の支配下に入ったあと、薩摩で学んだ王族で、日琉同祖論に基づいて正史をまとめ、シャーマニズムによる琉球神道の役割を小さくし、質素倹約につとめた。

蔡温は中国系の名門の出身で、北京に留学し、治水や植林、インフラ整備を進め、農業や工業を振興した。

こうして沖縄経済社会はそれなりに改善したが、それでも、本土に比べても前近代的で、薩摩の支配についても、一方的に収奪していたわけではない。焼けた首里城正殿でも、薩摩が私財までほとんど出して建てられた。こうした歴史的経緯があるからこそ、琉球王国時代を安易に美化することには賛成できない。

八幡 和郎
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授