中国のデジタル人民元の発行は世界の脅威なのか?

有地 浩

フェイスブックのリブラが米議会、G20財務大臣・中央銀行総裁会議など各方面から袋叩きにあう中で、フェイスブックのザッカーバーグCEOは議会の下院金融サービス委員会公聴会で、規制当局の支持が得られるまでリブラの発行を遅らせると述べる一方、中国がリブラと同じような暗号通貨を発行する準備をしており、アメリカがこの分野でリードしなければ、他の国がそうするだろうと、暗に中国の脅威を持ち出して議会をけん制した。

このザッカーバーグCEOの証言に限らず、最近各種のメディアで中国の中央銀行である中国人民銀行が近々デジタル通貨を発行することがしばしば報じられ、その中でデジタル人民元(以下「eRMB」)が世界の通貨覇権を奪い取ってしまう恐れがあるといった論調の記事も見られる。

写真AC:編集部

しかし、人民銀行がeRMBを発行することは、それほど大げさに騒ぐことだろうか。

中国がどのような形のデジタル通貨を発行するのか、ブロックチェーン技術を使ったものか、従来技術による日本で言えばJデビットのような形のものか、未だ明らかにされておらず、現時点でははっきりとした評価は難しい。

しかしeRMBが中国の金融システムに大きな影響を及ぼすことはないことは確かだ。なぜなら中国に限らず世界のどの国でも、銀行システムの中での資金のやり取りはコンピューターを使って電子的に処理されているからだ。仮に預金が銀行に百万円あるとして、銀行の支店に百万円の紙幣が積んであるわけではなく、銀行のコンピューター上に百万円と言う記録があるだけだ。こうした口座にあるお金をeRMBと呼ぶかどうかは形式的なことで、実質的に問題となるのは銀行システムの外にある現金(紙幣の人民元)とeRMBの置き換えだけだ。

ところで、現金の残高は口座にある資金の残高に比べるとはるかに小さい。日本のように現金の比率が高い国でさえ、世の中のマネーの残高(M1と呼ばれる現金通貨+預金通貨)に現金が占める比率は約13%しかない。スマホを使ったQRコード決済のAlipayやWeChatPayが大変広く普及している中国でもこの比率はほぼ日本と同じで約13%で、この部分がeRMBに代わるだけなのだ。

もっとも、eRMBの実態が未だ明らかにされていないので、人民銀行はもっと壮大な通貨改革を企図している可能性が全くないわけではない。

それは、人民銀行が国民一人一人にウォレットを持たせて、そのウォレットにeRMBを振り込むという方式だ。ちょうどリブラの保有者がカリブラというリブラ専用ウォレットを持つことと同じだ。しかしこの場合、ウォレットを与える多数の国民の本人確認をどうするかという困難な問題があるほか、この方式では人民銀行が世の中に出回るお金を直接コントロールすることとなり、市中銀行が中抜きされてしまう。

そうすると現状では市中銀行は、融資を実行する際に融資先の勘定に融資額相当の預金額を書き込むという、いわば無からお金を生み出すビジネスをしているが、この機能が市中銀行から奪われてしまう。そうなると市中銀行はゾンビ企業やゾンビ・プロジェクトの延命のための融資を思うようにできなくなって、企業の倒産が多発するかもしれない。だから、人民銀行が国民に直接eRMBを発行する方式はとられないと思う。

なお、中央銀行がデジタル通貨を発行するのは、人民銀行が世界初ではなく、既に北アフリカのチュニジアや西アフリカのセネガルでは中央銀行のデジタル通貨が発行されている。したがって世界第2位の経済大国の通貨がデジタル化されるという心理的なインパクトは大きいものの、eRMBが世界初の公的デジタル通貨という栄誉を手に入れることはもうできない。

ましてやeRMBがドルに代わって世界の覇権通貨となることもない。なぜなら、人民元の国際化が未だ十分に進んでいない理由はeRMBの導入とは関係が無いからだ。中国が資本流出懸念や国内金融市場の漸進的自由化のために外資規制を続ける限り、そして共産党の一党独裁の下で一夜にして法令が変わり、海外の投資家や貿易相手の大切なお金がどうにかなってしまうリスクがある限り、世界の人々や企業が自ら進んでどんどんeRMBで決済をする状況は出現しない。

それでは中国政府はなぜeRMBを導入するのだろうか。それは一つには、大変多く出回っている偽札対策、もう一つの理由はお金の動きの情報管理だ。ブロックチェーンを使ったeRMBが導入されたら、eRMBの取引履歴は過去にずっとさかのぼってチェックすることが可能となり、脱税・汚職取締り、反体制活動家の資産凍結など、簡単にできるようになる。

eRMBは習近平体制の強化のための一つの手段なのだ。

有地 浩(ありち ひろし)株式会社日本決済情報センター顧問、人間経済科学研究所 代表パートナー(財務省OB)
岡山県倉敷市出身。東京大学法学部を経て1975年大蔵省(現、財務省)入省。その後、官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。財務省大臣官房審議官、世界銀行グループの国際金融公社東京駐在特別代表などを歴任し、2008年退官。 輸出入・港湾関連情報処理センター株式会社専務取締役、株式会社日本決済情報センター代表取締役社長を経て、2018年6月より同社顧問。著書に「フランス人の流儀」(大修館)(共著)。人間経済科学研究所サイト