欧州の国民経済は一時期の活気はなくなり、景気は悪化してきた。特に、欧州連合(EU)の経済大国ドイツでその兆候が出てきた。にもかかわらず、11月中旬を迎えれば、人々の心はクリスマス一色になる。
ギリギリになってプレゼント買いに走るのを避けるため、11月からクリスマス用の買い物に精を出す賢明な人もいる。同時に、オンラインで買物を済ます若い世代が増えてきた。
ウィーン市庁舎前広場で15日夕、欧州有数のクリスマス市場がルドヴィック市長らを迎えてオープンした。32メートルの高さの樹齢130年の松の木のクリスマスツリーが市庁舎前に建てられ、2000を超えるLEDランプが光を放つ。
EU経済が厳しくなってきたというニュースには関係なく、人々は買い物の計画を立て、クリスマス休暇の到来を文字通り、指折り数えながら待つ。
クリスマスを待つ欧州の人々に水を差す気はさらさらないが、最新の考古学の成果やキリスト教神学の研究者の話を聞く度、聖書66巻の世界が大きく揺れるのを感じる。クリスマス市場の土台が揺れてきているのだ。
ここでは「イエスが実存人物だったか」といった大きなテーマは別の機会に譲るとして、イエスを十字架に引き渡した12弟子の1人、イスカリオテのユダのことを考えてみた。
世界のベストセラーである聖書は数十人の人々が長い年月をかけて編纂したものだ。その内容は書き手の思惑や信仰が色濃く、実際に起きた出来事ではないのではないか、といった疑いを持つことも多い。
素朴な疑問は、新約聖書の共観福音書によれば、イエスを祭司長らに引き渡したのはイスカリオテのユダとなっているが、なぜヨハネやペテロではなかったのかだ。イスカリオテとは、「イス」(Isch)は人(男)を意味し、「カリオテ」(Kariot)は地域名だ。すなわち、カリオテ出身の男という意味になる(「『イスカリオテのユダ』の名誉回復?」2019年4月21日参考)。
ユダヤ教の研究者は「ユダという名前は当時、ありふれた名前だったが、ユダヤ民族と酷似している点が重要だった。すなわち、イエスを十字架に送ったのはユダヤ民族だったという事実を想起をさせる上でイスカリオテのユダは格好の名前だったのだ。そして彼は30枚の銀貨でイエスを裏切ったという話がつく。ユダヤ民族が欲深い金銭至上主義者の民族だというイメージを広げるために創作された可能性がある」というのだ。
すなわち、書き手がユダヤ民族を中傷する狙いからユダの話を作り上げた可能性が考えられるというわけだ。これがイエスを裏切った弟子がヨハネでもペテロでもなく、ユダでなければならなかった理由だ。
イスラエルが建国された直後、世界のキリスト信者たちがイエスの裁判の再検証を要求する署名活動を開始したことがある。福音書作成者らの記述に矛盾と史実に合わない点が多いことから、イエスの生涯を綴った福音書の内容は事実とは一致していないという結論になった。
信仰深い老婦人が、「聖書は多くの人々が書き、それを編集したことは知っている。重要な点は聖書が神の霊によって書かれた聖典だということだ」という。だから、史実と一致していなくても大きな問題がないということである。ひょっとしたら、信仰はそれで十分なのかもしれない。
はっきりとしている点は、神は聖書より大きな存在だということだ。聖書に多くの問題や事実と合致しない点が見つかったとしても、それは人間が考え出した業だから当然かもしれない。
遠い将来、聖書に基づくキリスト教会は消滅し、最終的には宗教もなくなるかもしれない。ただ、「神が人間を含む宇宙を創造した」という事実は揺り動かされることがないだろう。
我々一人一人、良心をもっているから、聖書がなくても神とのコミュニケーションは本来、可能だ。聖書も教会もそれをもとに派生した宗教も、人間にとって必要不可欠ではない。
神は人間を自身の似姿で創造した後、「宗教」を作り出す考えはなかったはずだ。神はモーセに「わたしは有って有る者」(「出エジプト記」第3章14節)と答えている。人間が様々な思惑や狙いから構築した神学や宗教は時代とともに歴史の表舞台から姿を消していく運命にあるのではないだろうか。
その時、クリスマス市場は「冬市場」に呼称が変わるかもしれない。だからといって、神が怒り、不満を吐露するとは考えられない。ともかく、2019年のクリスマス市場はオープンした。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年11月16日の記事に一部加筆。