なぜ朝鮮国王は皇族で琉球国王は侯爵だったのか

華族制度と爵位制度は一体だと思っている人が多いが、華族制度は明治2年(1869年)、爵位制度は明治17年(1884年)に発足している。

華族には公家、大名と一部の家老、維新やその後の功労者など、臣籍降下した皇族などがなったのだが、大名の爵位と、それと関連した朝鮮、琉球両国王の扱いについて紹介する。

2人の最後の王、朝鮮の純宗(左、Wikipedia)と琉球の尚泰(国立国会図書館HP)

大名の爵位は、大名の爵位は石高が原則のようにみえるが、正確には普通に知られる表高(例・伊予松山15万石)でなく、実質的な収入である実高を基準とした。たとえば、表高15万石でも、江戸時代を通じて収穫増がある場合が多いので20万石くらいの収穫がある。そして、四公六民とすると実高は8万石ということになる。

そして、大名は最低でも子爵、実高5万石以上なら伯爵、15万石以上なら侯爵だった。この原則による悲喜こもごもは、次回に説明するが、これを朝鮮国王に当てはめると侯爵、琉球国王(表高8万9千石)は子爵になる。

しかし、大名でも徳川家などを例外にして宗家は公爵、御三卿は領地はないが伯爵にしたので、朝鮮、琉球両国王が大名なみの原則より優遇されるのは当然だった。

琉球国王の尚家は、伯爵でもワンランク特別扱いだが、国王だったことに特別の配慮をして侯爵にされた。

朝鮮国王については、清国との冊封関係は琉球国王と同じ(見方によっては格下という解釈もあるが)だから侯爵という見方もできて、実際にそういう心配もしたようだが、公爵を飛び越えて皇族扱いになった。

徳川宗家なみでもおかしくはないわけだが、国家が合同したケースにあって十分に礼を尽くした扱いである。

もし、この李家と尚家に対する待遇の差を中国的な尺度からみれば不合理とも見える。両者は同格だったからである。

しかし、こういう見方もできる。琉球にせよ朝鮮にせよ中国とどういう関係をもっていたかなど日本が知ったことではない。また、中国と両国の関係は近代国際法上は無意味なものだ。

そして、明治5年(1872年)に新政府を琉球藩を設け、尚泰王を藩王としている。つまり、廃藩置県以前の大名とよく似た地位であり、自治地区みたいなものだ。王という称号は必ずしも国王ではない。中国史における藩王も、日本史における王もなにも国王を意味しない。つまり、琉球処分以前に琉球国は存在しないことが明確化されていた。

それに対して、朝鮮は下関条約で、中国との関係を清算し、やがて皇帝を名乗った。日本が併合したのは朝鮮王国でなく大韓帝国である。ならば、日韓併合後に元皇帝として扱われ、皇族扱いされたのは自然な成り行きということだろうし、それを李家は歓迎し、併合後の状況を平穏にした。

三・一独立運動のきっかけとなった李垠(元皇太子)と梨本宮方子との結婚はその延長だし、高宗がこれを大歓迎したのも当然である。結婚に高宗が反対していたという誤解のもとに三・一運動が勃発したのは皮肉であった。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授