立花孝志氏VS石垣のりこ議員⁈ 古くて新しい問題「寛容のパラドクス」とは

音喜多 駿

こんにちは、音喜多駿(参議院議員 / 東京都選出)です。

先般から、立憲民主党の石垣のりこ議員が高橋洋一氏を「ファシズム・レイシズムの片棒を担いでいる」と論評したことが物議を巻き起こしており、これに対してN国党首の立花孝志さんが見解を述べている動画が回ってきました。

上記の方がTweetでまとめておられますが、立花孝志さんの主張は

・石垣のりこさんは多様性を認める社会を主張している
・ならば、レイシズムやファシズムなどの思想も「多様性」の一つとして認めるべきだ!
(・ちなみに私はファシストです)

というものです。最後のファシスト宣言がヤバすぎる点を除いても、この立花氏の主張は色々な意味で危うく、また間違っています

多様性社会と名乗るのだったら、全体主義や差別主義も容認しろ!なぜそれができないんだ!というのは、「寛容のパラドクス」と言われる古くて新しい問題です。

なぜ「古くて新しい」と表現したかというと、すでに多くの政治学者・哲学者によって一定の結論が出ているものの、多様性社会の加速により近年またこれが議論になることが多いからです。

結論から言えば、「寛容」を是とする多様性社会と言えど、ファシズムやレイシズム等に対しては不寛容であらざるを得ないのです。

というのも、ファシズムやレイシズムは他の考え方を抑圧・排除する極めて攻撃的な思想であり、これを受け入れれば社会そのものが破壊されてしまうからです。

これが「寛容のパラドクス」と言われるものであり、1945年にこれを提唱した哲学者カール・ポパーは、

無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く

「もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。」

と喝破しました。私もこれはその通りだと思います。

他を排除しようとする思想と共生・寛容を目指す思想とは、残念ながら理論的に共存が不可能であり、それをやろうとすると「共存・寛容を目指す側」が常に守勢に回ることになり、最終的には淘汰されてしまうわけですね。

なので、立花孝志さんが石垣のりこ議員を「多様性を認めてないじゃないか!」と批判した点については、この「寛容のパラドクス」によって反論が可能ですし、当然に石垣議員ご自身も理解した上で発信していることだと思います。

ただ、立花孝志さんの批判は残念ながら的外れだとしても、石垣のりこ議員の発言には問題が残っています。

ファシズムやレイシズムは、この多様性社会においても「排除やむなし」というコンセンサスが取れているほど、激烈な思想です。

だからこそ、特定人物やその言説を「ファシズム・レイシズムだ!」と断定することには極めて慎重でなければいけないわけです。

とりわけ、権力者が根拠薄弱のまま誰かの言論や存在そのものを「ファシズム・レイシズム」とレッテルを張って排除することが常態化すれば、言論の自由が著しく脅かされる恐怖社会が訪れることになります。

民間人である高橋洋一氏から比べれば、国会議員である石垣のりこ議員は明らかな権力者です。そして、高橋洋一氏をファシズム・レイシズムと判断する根拠は、いまのところ石垣議員からは示されていません。

以上のような前提に立つと、私は高橋洋一氏を安易にファシズム・レイシズムと断定するべきではないと思いますし、石垣議員は踏み込みすぎた発言を撤回・謝罪された方が良いと率直に思います。

今回の例は極端すぎたとしても、本来「多様性・寛容」を是とするリベラルが、安易に他者にレッテルを貼って排除することが常態化しているのが、日本におけるリベラル勢力弱体の一つの要因であるとされています。

「アベ政権はファシストだ!」

なんていうのがその典型ですね。

考え方や政策が異なるとはいえ、民主的な手続きで選ばれている宰相を「ファシスト」扱いする人たちが多くの人の共感を呼ぶとは思えませんし、私もそれはおかしいと思います。

「寛容のパラドクス」があるからこそ、他者に不寛容のレッテルを貼る時は細心の注意を伴う

私も他山の石としていきたいと思います。


本件は動画でも解説しましたので、こちらも合わせてぜひ。N国についてオマケでコメントもしています^^

それでは、また明日。


編集部より:この記事は、参議院議員、音喜多駿氏(東京選挙区、日本維新の会、地域政党あたらしい党代表)のブログ2019年12月1日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は音喜多駿ブログをご覧ください。