中曽根康弘さんが亡くなった。昭和を代表する政治家のひとりだ。受章した勲章にちなんで「大勲位」とも呼ばれた。101歳だった。
中曽根さんとの思い出は、数えきれないほどある。もっとも印象的なのは、中曽根さんが、自民党総裁選挙に出馬したときのことだ。
選挙戦が繰り広がれるなか、僕は『文藝春秋』のため、取材を開始した。中曽根さんが当選して、あらためてインタビューをしたとき、僕はまず、「風見鶏と言われています。調子のよいところがあり、信用されていないのではないのですか」と切り出した。
田中角栄と福田赳夫が争っていた、いわゆる「角福戦争」のときのことだ。中曽根さんは、はじめ福田側だったのが、途中から田中側についたため、「風見鶏」と揶揄されたのだ。
すると中曽根さんは怒りもせず、「風見鶏だからいいんじゃないか。風を見ることができなければ、政治家なんて危なくてしかたない」と答えたのだ。中曽根さんのおもしろいところだった。
「専守防衛」という言葉を使い始めたのも、中曽根さんだ。彼が防衛庁長官だった頃だ。あるとき、僕は、首相になった中曽根さんに、「専守防衛なんてインチキだ」と言った。
太平洋戦争で、日本は「本土決戦」を国民に強いて、結局沖縄ではアメリカとの悲惨な地上戦となってしまった。だから僕は、「専守防衛とは結局、本土決戦になることで、日本人がたくさん死ぬのではないか」と問うたのだ。すると中曽根さんは、「専守防衛とは、戦争をしないことだ。日本はアメリカの抑止力のもとで、戦争をしない国になる」と言い切った。
そして、「アメリカとの濃密な関係を築かねばならない」とも言っていた。この言葉どおり中曽根さんは、当時のレーガン米大統領と、「ロン」「ヤス」と呼び合う、親密なつながりを築いた。
中曽根さんは、海軍軍人として出征し、多くの戦友を失っている。戦争を体験し、戦争の恐ろしさを知る者として、日本は二度と戦争をしてはいけない、「戦争をしない国」に、しなければならないと誓っていた。
また、戦争を知る政治家がひとり世を去ってしまった。ご冥福をお祈りいたします。
編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2019年12月5日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。