二つの裁判所判決で裁判員裁判の判断との相違が明白となりました。
7年前、大阪の心斎橋で二人を殺害した事件。裁判員裁判では死刑判決、二審では無期懲役、そして今回の最高裁でも無期懲役となり、裁判員裁判の死刑判決は覆されました。
4年前、ペルー人が埼玉県熊谷市で6人を殺害したケースでも裁判員裁判では死刑判決でしたが二審判決は無期懲役となりました。
裁判員裁判の死刑判断が最高裁までで覆され確定したケースは5例、上述の熊谷連続殺人事件ではまだ高裁判断ですが、裁判員裁判の判断が覆されたという意味では6例目になります。
これでは裁判員裁判の意味がないのではないか、という報道もあります。非常にセンシティブな案件だと思います。
死刑については議論が多いところで専門家の間でも意見は大きく割れています。先進国の傾向としては死刑制度を廃止している国は増えており現在96か国あります。欧州諸国やカナダ、オーストラリアといった国は死刑制度が廃止されているものの人口が多いアメリカ、中国などは存続しているので死刑廃止が趨勢とは言い切れないという見方もあります。
では死刑判決を下された受刑者に死刑執行を最終的に行う法務大臣の判断はどうかといえば1980年からのリストを見る限り2006年ぐらいまでは消極的であり、同年の第一次安倍内閣で長勢甚遠氏及び鳩山邦夫氏が法務大臣の際に死刑執行が急増します。ただ、その後も法務大臣により執行する人、しない人、消極的な人に分かれ、数の上では上川陽子氏が16名、前述の鳩山氏が13名、谷垣禎一氏が11名、長勢氏が10名で残りの法務大臣経験者はゼロとか1が多く、二極化しているともいえます。
裁判員裁判で極刑を下しても上級審で覆されることに対して産経新聞は「制度導入以前の判例との公平性を重視すれば、これが埋まることはない。36年前の『永山基準』がものさしであり続けている現状こそがおかしい。最高裁は、裁判員制度の意義を踏まえた新たな判断基準を明示すべきである」と厳しく批判しています。
永山基準とは1969年に4人を殺害をした永山規夫元死刑囚(83年最高裁死刑判決、97年死刑執行)の判決の際に最高裁が示した事件の性質、動機、残虐性などに基づく9つの死刑基準であり、今でもそれがバイブルとされているようです。基本的スタンスとしてはそれらの基準を満たす場合に消極的に死刑判断を下すと考えられ、「やむを得ずの極刑」であります。
ところが裁判員裁判の場合、目線がその事件性や社会的影響、遺族の悲しみなどを被害者やその家族を斟酌しやすい可能性があり、極刑や厳しい判断を行う傾向はあるのでしょう。上級審でそれが減刑判断されるのはその斟酌のとらえ方の違いともいえそうです。
この問題については皆さまの意見も真っ二つに割れると思います。どちらが正しいとも言い切れないでしょう。産経新聞のように永山基準は時代にマッチしていないと主張するのが正しく、消極的でやむを得ずではなく、悪は積極的に断罪にしてしまうべきなのか議論があるところだと思います。
裁判員裁判が国民の肌感覚の判断に対して上級審とのギャップが非常に明白になり、日本の法的判断基準が見直される機運が高まればそれは見直すことも必要でしょう。ただ、安易な変更はすべきではありません。韓国の裁判制度が情緒法といわれ、時の政権や国民感情で法の判断がくるくる変わることを我々は厳しく糾弾してきたではありませんか?その点では法の判断は見直すことがあっても時の流れに流されることなく、しっかりと議論をする土壌は作るべきでしょう。
もう一つ、裁判に限らず物事の判断基準において「0か100か」という判断とどこかに落ち度があるとして70-30とか80-20の判断を下す傾向がある場合もあります。100である極刑が最高裁で出にくいのは加害者の罪悪度が必ずしも100とならないとみているわけです。これは私感ですが、日本の歴史的な考え方も背景にあるかもしれません。例えは悪いですが、「村八分」も80-20の考え方です。
このあたりは考えれば考えるほど難しい課題であるように感じます。私は産経新聞のようにストレートな調子にはなれないのであります。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年12月6日の記事より転載させていただきました。