新刊『古代史が面白くなる「地名」の秘密』 (知恵の森文庫)では、オリジナルの地図を豊富に掲載して古代史の謎に挑んでいるのだが、今回は、大和朝廷の統一過程を少し地図を使って解説してみよう。
アゴラの記事でも私がしばしば説明しているのは、『記紀』においては。神武天皇の東征というものについての記述はないということだ。日向生まれの数人の集団が各地で力を蓄えながらついには、奈良盆地の片隅に小さなクニを建てたということが書いてあるのである。
それが、大和を統一し、さらには、吉備や出雲まで勢力圏に入れたのは、10代目の崇神天皇のときである。それでは、崇神天皇以前には、どのあたりまでが勢力圏だったのかだが、二代目の綏靖天皇から八代目の孝元天皇までの宮のあった場所はどうなっているかといえば、綏靖天皇の高丘宮は御所市森脇の葛城山の中腹にある。葛城山を越えて河内と五条を結ぶ国道309号線の近くに一言主神社があり、そこから少し小道を北へ行くと「綏靖天皇葛城高丘宮跡」の石碑がある。畝傍山もこのあたりからよくみえる。
そのあとの、天皇の皇居を紹介すると、安寧天皇の片塩浮孔宮は、①橿原市四条町付近 ②大和高田市三倉堂・片塩町③大阪府柏原市内という三つの説がある。②は大和高田市の商店街にある石園座多久虫玉神社の境内で石碑がある。
懿徳天皇については、「日本書紀」では軽曲峡宮、『古事記』には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」とある。いずれにせよ、近鉄岡寺駅の付近だ。駅の西側で高取川が湾曲しているのでそのあたりという推察もある。
孝昭天皇は掖上池心宮だが、掖上というのは葛城地方にあたる御所市池之内のあたりで、神武天皇らの后などと縁がある事代主神を祀る鴨都波神社もある。JR和歌山線玉手駅から少し南に行った田畑のなかに池代宮跡の石碑がある。
孝安天皇の室秋津島宮(むろのあきづしまのみや)であるが、既に書いたように、秋津島というのは、日本全体の代名詞として使われることがある。宮山古墳の東に八幡神社があって、ここに宮跡の石碑がある。
孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだのいおとのみや)は、葛城の地を離れて北にある皇后の実家の地盤である田原本付近に本拠を移したようだ。近鉄田原本線の黒田駅から南に徒歩五分です。廬戸宮があったのは、聖徳太子によって創建された法楽寺という真言宗のお寺のところである。
孝霊天皇の子で倭迹迹日百襲媛命の同母兄弟に吉備津彦命があり、桃太郎とは吉備津彦命のことであり、吉備津彦命が生まれたのは父帝の宮だろうからというので桃太郎生誕の地ということになっている。
孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)は、南に戻って岡寺駅から近い橿原市見瀬町の牟佐坐神社だとされ参道の脇に石碑がある。
以上の場所を地図上にプロットしてみると図のようになる。つまり、だいたい橿原市、御所市、葛城市の範囲内におさまり、せいぜい、勢力圏はこのあたりに限定していたようだ。
そして、九代目の開化天皇は、少し葛城地方から離れ、春日率川宮(かすがのいざかわのみや)に宮を構えた。JR奈良駅の南にあって神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴姫命を祀る率川神社がその跡だ。
そして、崇神天皇は櫻井市の纏向地方に移る。これをみれば、開化天皇までは邪馬台国畿内説の人が所在地だとかいう纏向付近は勢力圏でなかったことが推察できる。もちろん、九州につながりを持つどころではない。
ついで、12代目の景行天皇は神武天皇以来、久々に父祖の地である日向など九州に遠征する。訪れた場所とされているのは、下の地図に○で表されているところだ(□は関係ないので注意)。つまり、鹿児島県北部から福岡県南部までのあいだである。
日向でもとくに墓参りなど先祖の地を訪れたようではない。私はこれは、分からなかったのだろうと思う。つまり日向から来たという漠然とした伝承だけしかなかったのではないだろうか。
そして、景行天皇の孫である仲哀天皇は皇后で開化天皇の子孫である神功皇后とともに、筑紫にやって来る。つまり福岡県北部である。
仲哀天皇はこの地で神の怒りに触れたか亡くなるが、神功皇后が熊襲を討ち、ついで半島に遠征する。この『日本書紀』にのっている神功皇后ゆかりの地もプロットすると地図の●のようになる。
これをみれば、大和朝廷の勢力は景行天皇のときに九州に到達したが、大陸と交易もしていた伊都国など筑紫諸国を支配下に入れることはできず、仲哀天皇の世代になって初めて九州の統一に成功したらしいということが分かる。
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授