バチカン・ニュース独語電子版は12日、「バチカンは2001年以来、聖職者が犯した未成年者への性的件数6000件を調査してきた」と発表した。同数字はバチカン信仰聖省刑法担当、教会法学者、スパインのジョルディ・ベルトメア氏(Jordi Bertomea)がスペインの雑誌「パラブラ」の中で明らかにしたものだ。
同氏によるとバチカンの調査は過去50年間まで遡ったもので、「カトリック教会聖職者の性犯罪は恐ろしい犯罪だが、性犯罪はカトリック教会の聖職者だけの特有の犯罪ではない。多くの性犯罪は家庭内で行われている。他の宗教団体でも生じている」と弁明している。
そのうえで、「カトリック教会の場合、世界に約46万人(教区神父、修道僧、助祭など)の聖職者がいるが、その性犯罪発生率は低い」と主張し、「聖職者の性犯罪が教会の独身制と関係があるという主張は実証されていない」と述べているのだ。ちなみに、同氏は2018年、フランシスコ教皇に南米チリ教会の性犯罪の特別調査官に任命されている。
同記事を読んで少々驚いた。先ず、「バチカンは2001年以来、6000件の聖職者の性犯罪を調査してきた」という。この数字は実際起きた聖職者の未成年者への性的虐待総数の氷山の一角に過ぎない。米カトリック教会だけでも5桁の性犯罪が起きているからだ。
例えば、独カトリック教会司教会議が昨年まとめた報告書によると、同国で1946年から2014年の68年間で3677人の未成年者が聖職者によって性的虐待を受け、少なくとも1670人の神父、修道院関係者が性犯罪に関与したというショッキングな内容だ(「独教会『聖職者の性犯罪』をもみ消し」2018年9月14日参考)。
次に「性犯罪はカトリック教会だけで起きているものではない。家庭内で最も多く起き、他の宗教団体でも起きている」と説明する。同氏の発言内容は間違っていないが、その主張には「神の教えを伝え、愛を唱える」世界最大のキリスト教会、ローマ・カトリック教会という看板を下ろすならば納得できるが、実際はそうではない。神の教え、愛を唱える最大のキリスト教会で起きた性犯罪だ。それを恣意的に無視し、性犯罪を相対化し、「性犯罪はどこでも起きている。カトリック教会特有の問題ではない」という論理を展開させている。
最後に、「聖職者の性犯罪と聖職者の独身制とは関係がない」と述べている点だ。実際は、カトリック教会関係者の間ですら「独身制との関係がある」という声がある。独身制の廃止を訴える聖職者が多くいる。同氏の主張はそれらの現実を無視している(「『独身制』について現場の司教の声」2017年8月13日参考)。
同氏は聖職者の6000件の性犯罪の重みを他の社会層と比較することで相対化している。実数は6000件以上だが、6000件としても、その件数は驚くべき数字だ。
聖職者によって性的虐待を受けた未成年者の「その後の人生」を考えるべきだ。その中には自殺した者もいる。トラウマを払しょくできずに日々、苦しい生活をしている犠牲者の証をどのように受け止めているのか。
バチカンが17日明らかにしたところによると、フランシスコ教皇は聖職者の未成年者への性的犯罪を今後、教会内で留めず、隠ぺいを認めないという。聖職者に課せられた「守秘義務」の放棄を意味する。同教皇の決定は評価すべきだが、「何をいまさら」といった批判的な声が多い。当然だろう。教皇の「守秘義務放棄」宣言は6000件の聖職者の未成年者への性的虐待事件後にようやく出てきた決定だからだ。
問題は深刻だ。フランシスコ教皇の周辺を振り返ればよくわかる。フランシスコ教皇の信頼を得て財務省長官を務め、バチカン・ナンバー3の地位を享受してきたオーストラリア出身のジョージ・ぺル枢機卿(78)は現在、2人の未成年者への性犯罪で6年の有罪判決を受けている。同教皇の友人、米ワシントン大司教区のテオドール・マカーリック前枢機卿(88)に対し、バチカン教理省は今年2月16日、未成年者への性的虐待容疑が明確になったとして、教会法に基づき還俗させる除名処分を決定した。
バチカンは今年2月、世界の司教会議議長らを集めて聖職者の性犯罪への対策について協議した。聖職者の性犯罪の多発で教会への信頼性はガタ落ちだ。様々な対応策が出てきたが、決定打はなく、状況に大きな変化はない。
駐仏のバチカン大使、ルイジ・ベントゥ―ラ大司教(75)は2人の男性に性的行為をした容疑でフランス検察当局に調査を受けている、という情報が流れたばかりだ。フランシスコ教皇は今月17日、同大司教の辞任を受理している(バチカン・ニュース12月17日)。
世界に約13億人の信者を抱える組織の大きさは別として、6000件の性犯罪を犯したメンバー、職員、聖職者を抱える団体は存続できるだろうか。ローマ・カトリック教会でなければ、そのような団体はとっくに組織犯罪グループとみられ、解散命令を受けているだろう。
厳しい表現となったが、教皇の「守秘義務放棄」の表明は教会が過去、聖職者の性犯罪を隠蔽してきたことを裏付けるだけだ。ただし、明確にしなければならない点は、ローマ・カトリック教会の実態から「神の存在」を論じてはならないことだ。残念ながら、「神」はもはや「教会」という組織から離れてしまっているからだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年12月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。