起業の野武士たち

日産自動車の関潤副最高執行責任者が就任後まだ3週間しかたたないのに辞めて日本電産に次期社長含みで転じると報じられています。私は西川体制の後にルノーと日産が丸く収まる内田誠氏を中心とする体制にしたのは究極の妥協の産物だと思っており、それが発表された時、厳しいコメントを書かせて頂いたと思います。

3週間で辞める関氏は何が不満だったのでしょうか?私は日産の新体制の最終選考で内田氏と関氏が最後まで争い、内田氏がトップに、関氏がアシュワニ・グプタCOOの次であるナンバー3に収まったことに居心地の悪さを感じたのだと信じています。いわゆる「副」がつくポジションはやり手にとってこれほど面白くない肩書はないのです。それはサブなのですから自分の采配を振るえないという究極の苦しみであり、特に内田氏と関氏の関係においては「負け」が確定したわけです。

人事はそんなに簡単なものではありません。選考委員会が候補者のカードを見ながらこれにしよう、いや、こっちだという選び方で選考される場合は野武士は残らないのであります。本当は日産には破天荒なぐらいの人材が欲しかったはずで今回の関氏の辞任はそれを読み込めなかった選考委員会にも責任があると思います。(それ以上に関氏の揺れる気持ちの間隙をついた日本電産の永守重信会長も大したものだと思います。)

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

日経電子版に「ネット興亡記完結編」という長文の記事があります。記事というよりもう小説に近いかもしれません。まだ第2回までしかないのですが、今のところスポットライトが当たっているのが宇野康秀氏と藤田晋氏です。宇野氏は大阪有線放送社を父親から継ぎ有線放送を電線で繋ぐ本業よりもネット事業勃興期の起業家を繋いだ男として紹介されています。

私は昔、宇野氏の経営姿勢が面白くてUSENの株を持たせて頂いたことがあります。私の記憶が正しければ宇野氏が沖縄にあまり芽の出ない巨大な土地を仕込んでから経営者としての才覚が崩れていった記憶があります。

一方の藤田氏は私と同じ大学出だったこともあるのですが、彼の半自叙伝をむさぼるように読みました。さっぱり流行らなかった「アメーバーブログ」を孤高の中でようやく事業として形づけた点で野武士そのものであります。彼が「俺はいつかあの(お台場の)フジテレビの隣に、もっとでかい『フジタテレビ』をつくるんだ」とドライブしていた彼女に語った夢が青学っぽくて格好がよすぎるのです。

この「ネット興亡記」には三木谷浩史氏や堀江貴文氏らもいずれ出てくるのでしょう。ただ、考えてみれば2000年前後に面白い若手経営者は他にもたくさん生まれました。折口雅博 (ジュリアナ⇒グッドウィル)、重田康光(光通信)、渡邉美樹(ワタミ)、南部靖之(パソナ)、澤田秀雄(HIS)…。皆さん、かなりワイルドな仕事ぶりだったと思います。上述のUSENの宇野さんも父親がやった不法電線占有状態を気が遠くなるようなプロセスを経て正常化させました。どの人も血がにじみ出るような苦しみを経ながら成功への道を目指し、現在に至っています。

現状に満足せず、自分の力量を限界まで試す、このくそがつくほどの根性があったからこその今なのでしょう。采配を振るうというのはやってみるとなかなかスリリングなものです。オーケストラの指揮者のようなもので各部門のハーモニーが調和しないと組織がいかに動かないか実感できます。悔しくて指揮棒を何度も折りながらも前進していくイメージです。

平成令和の時代には最もふさわしくない泥臭さこそが歴史に名を刻むプロセスなのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。メリークリスマス!


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年12月25日の記事より転載させていただきました。