「プラハの春」の祝日化にロシア抗議

チェコ議会がチェコスロバキア連邦時代の民主化運動(通称「プラハの春」)で犠牲となった国民を追悼する新しい国民祝日を設定したことに対し、旧ソ連の後継国ロシアが「プラハの決定は両国関係の発展を阻害する」と批判するなど、両国関係がここにきてにわかに険悪となってきた。

旧ソ連軍のプラハ侵攻(米情報機関、1968年に撮影)

チェコスロバキアで1968年、「プラハの春」が起き、昨年で50年目を迎えた。チェコ議会は12月、「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍に武力弾圧され、多くの国民の犠牲が出たことを忘れないために、8月21日を国民祝日に設定することを決め、ゼーマン大統領が今月13日、関連法案に署名した。

それに対し、モスクワ外務省は、「チェコとの関係が良好化している時、このような祝日を導入することは両国関係の悪化に繋がる」と深い失望を表明している。

チェコとロシアは1993年、両国の相互尊重などを明記した友好協定を締結し、過去の歴史を乗り越えて新しい歴史を切り開くことを決めた。それだけに、モスクワ側はチェコ議会の今回の「プラハの春」祝日導入決定はその協定の精神に反する、という論理だろう。

チェコのミロシュ・ゼーマン大統領(チェコ大統領府公式サイトから)

興味深い点は、親ロシア派と受け取られてきたミロシュ・ゼーマン大統領が今回の新しい祝日導入を積極的に支援し、法案に署名したことだ。同大統領は27日、ロシア側の祝日設定に対する抗議に対し、「恥知らずな言動だ」と一蹴し、モスクワで来年5月9日に開催予定の第2次世界大戦戦勝75周年記念式典への参加を取りやめる意向を表明したほどだ。

旧チェコスロバキアで1968年、民主化を求める運動が全土に広がった。旧ソ連ブレジネフ共産党政権はチェコのアレクサンデル・ドプチェク党第1書記が主導する自由化路線を許さず、ワルシャワ条約機構軍を派遣し、武力で鎮圧した。これが「プラハの春」と呼ばれた出来事だ。

旧ソ連共産党政権の衛星国だった東欧諸国で1956年、ハンガリーで最初の民主化運動が勃発した。「プラハの春」はこのハンガリー動乱に次いで2番目の東欧の民主化運動だった。ドプチェク第1書記は独自の社会主義(「人間の顔をした社会主義)を標榜し、政治犯の釈放、検閲の中止、経済の一部自由化などを主張していた。

チェコで「プラハの春」が打倒されると、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜したグスタフ・フサーク政権が全土を掌握し、民主化運動は停滞した。

しかし、劇作家のバーツラフ・ハベル氏(Vaclav Havel)、哲学者ヤン・パトチカ氏、同国の自由化路線「プラハの春」時代の外相だったイジー・ハーイェク氏らが発起人となって、人権尊重を明記した「ヘルシンキ宣言」の遵守を求めた文書(通称「憲章77」)が1977年、作成された。チェコの民主化運動の第2弾が始まった。そして1989年11月、ハベル氏ら反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが“ビロード革命”である。

「プラハの春」は、ドブチェク共産党第1書記を中心とした党内の上からの改革運動だったが、「ビロード革命」はハベル氏ら知識人や学者たちの反体制派運動だった。ちなみに、チェコではハベル氏ら知識人を中心とした政治運動が、スロバキアではキリスト信者たちの信教の自由運動がその民主化の核を形成していった。

50年前、ドプチェク氏がやり遂げられなかった自由化路線をハベル氏らは引き継ぎ、実現したわけだ

チェコでも冷戦時代を知らない世代が増え、自由を当然と考える世代が多くなってきた。チェコ国民の最初の民主化運動だった「プラハの春」を国民祝日とすることで、共産政権下の人権弾圧を忘れず、獲得した自由に感謝する契機となるならば、チェコ国民ばかりか、スロバキア国民、そしてロシア国民にとっても有意義な祝日となるのではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年12月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。