長年月ぎめで駐車場を借りていた顧客がキャンセルしました。2台あったクルマの1台を売却したからというものです。よく知っている人なのですがクルマがなくなってほっとした、という顔つきでした。
所有していれば必ず何らかの維持費はかかるものです。クルマなら駐車場代やメンテ代、日本なら車検費用が乗っても乗らなくてもかかります。不動産なら損害保険に固定資産税、マンションなら管理費…といった具合です。
借りるという選択肢はかつては「金のない人がそうせざるを得ない方法」という発想が主流だったと思います。それ故に30代ぐらいになるとこぞって20年以上の気の遠くなるような長期のローンを組んで住宅を買うのです。賃貸とは古い木造アパートや長屋のイメージが強いのでしょう。しかし、今や住宅は余っています。また駅近くの近代的な高層賃貸住宅も次々とお目見えしています。
自動車はどうでしょうか?自家用車を所有するのは戸建て住宅に住む方の見栄もあったでしょう。「お隣さんは普通自動車なのになんでうちは軽なの?」という会話があったことなど今の若い方は知らないでしょう。昔は普通自動車に高い価値観があった記憶があります。
90年代、私が北米で強く感じた自動車事情とは個人向けリースが異様に普及していた点です。最近のリースは4年ぐらいの長めで組むのだろうと思いますが、その当時は自動車会社が販売の回転を早めるために2年リースが目立っていました。すると顧客はいつも新しいクルマを乗り継いでいる感じになるのです。「あの人、また違うのに乗っている」というわけです。それを見ると10年前に出た高級車を所有し続けるよりも「いいなぁ、新しいクルマは」ということになるのです。
買うか、借りるか、シェアするか、という発想はモノに限りません。人間関係もそうなってきています。結婚するか、パートナーになるか、であります。パートナーとは日本語でいう同棲に近いのですが、北米では子供ができればそれは二人の子どもとして認知され、社会的に結婚と差異はありません。
やはり90年代でしたが、私のところの女性従業員にパートナーと3年も同棲してしている人がいました。私が「なぜ結婚しないの?」と聞けば「なぜ、結婚しなきゃいけないの?」と聞き返されました。従業員曰く、結婚は縛りが多くて面倒くさいのだと。特に離婚になった時の財産分与など法律的縛りがきつくそんな面倒なことには巻き込まれたくないそうです。なるほど、それが北米での女性の社会進出を手助けしている部分もあるのだろうなと当時思ったものです。今でも私の周りには熟年や子持ちの方々でもパートナー関係である人は結構多く、結婚は単なる一つの選択肢でしかないのであります。
これはある意味、契りが一生ではなく、何かあった際の契約解除が簡単にできるFail Safe(安全装置)とみるべきなのでしょう。北米は契約社会ですが、ビジネス契約にしろコンサルの契約にしろ必ずあるのが契約解除条項で基本的にちょっとした条件を満たせばお互い「はいさようなら」と簡単に別れることができます。私もこの契約解除条項でずいぶんお世話になったのですが、それはお互いちぐはぐしたとき、いやな思いをせずにあと腐れない形にするという意味でもあるのです。
物品のシェアの時代の典型は音楽や図書なのだろうと思います。今の時代、書籍を買い込んで本の重みで床が抜けるという方はほとんどいなくなったでしょう。多くの方は本は一度読めば終わってしまいます。ならば図書館で借りてくればいいのであります。音楽も私は最近、自分のスマホにストアせずにネットでお気に入りラジオ局を流しています。どうしても特定のCDを買う時代ではないのです。
所有しないという発想はモノからヒトの関係にまで発展してきています。ある意味末恐ろしい話でありますが、それが当たり前で育ってきている若い人たちにはそれがニューノーマルとなるはずで我々はそれを受け入れるかどうかは別として世の中の価値観の大きな変化が着実に進化していることは肝に銘じるべきなのでしょう。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年1月13日の記事より転載させていただきました。