経営者アワードを創設しよう

日本には褒章という栄典があります。これは社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰するため、天皇から対象者に授与される(ウィキ)とあります。一般には議員や公的職務、あるいは特定、不特定を問わずにその努力が社会的に価値あるものとみなされた人を知らしめ、称えます。

褒章はおおむね一定年齢以上の方が対象である場合が多く、50代以下ではかなり少ないものであり、人生の後半にそれを評するということかと思います。この褒章については少なくとも私はその候補者の選択で議論があったことはあまり耳にしません。(多分あるのだろうと思いますが、表に出ないだけかもしれません。)

ノーベル賞は言わずと知れた名誉ある賞でありますが、自然科学の分野においてその研究成果が人類の発展にどれだけ寄与したかたたえられる賞であります。その中に経済学賞があるのですが、あれはノーベル財団が出しているものではなく、スウェーデン国立銀行がノーベル財団に働きかけて抱き合わせで行われてるものでノーベル経済学賞とは厳密には言いません。

文学の世界はどうでしょうか?上述のノーベル文学賞ほか、日本には芥川賞や直木賞をはじめ、各種賞があり、書籍の販売を促進させるためでしょうか、書籍の帯に〇〇賞受賞とか〇〇賞受賞作家と派手に銘打っています。

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その他ファッションや自動車などさまざまな賞があるのですが、経営者に与えられる賞はローカルなレベルではあるのですが、国家レベルないし、世界レベルのものは少ないように感じます。(バンクーバーには女性経営者の賞はありますね。)なぜでしょうか?

江戸時代の士農工商という序列を考えてみると士農工までは比較的アワードが多いのですが、商になると金銭に目がくらんだお下品な身分ということだったのかもしれません。江戸時代において人数的には商の身分の人が圧倒的に多かったのですが、ある意味、その他大勢という一般階級的扱いが根にあるのでしょうか?

私の発声で創設させて頂いたバンクーバーのビジネス系NPOの日系ビジネスアワードはすでに17年間継続しており、当地ではよく知られた存在であります。ただ、この10年、私はそのアワード受賞に対する選考委員会のレベルがやや低いことに閉口しています。理由は選考基準が不明瞭で知名度による選択基準への偏重となるため、小売り、飲食関係が主体になってしまっているのです。

「商」における成功者とは決して儲けることを主眼としているわけではないと考えています。巧みな経営術、人心をいかにまとめ、力強いリーダーシップで物事に立ち向かったか、また困難を乗り越えたブレイクスルーなどであって従業員の大小、売り上げなどの企業規模は二の次であると思うのですが、なかなかそこまで眼力のある審査委員は少ないようです。

ビジネスアワードの選択は非常に難しいのですが、私はもっと公的で大々的なものを立ち上げるべきだと思っています。それはいわゆる経営者の鏡とはこういうものという指針を明白に打ち出すわけで星の数ほどいる経営者にとって向かうべきベクトルが見えやすいことになると思うのです。

経団連や経済同友会などはメンバー主体の団体、各地の商工会議所はローカルベースですので日本全体を取りまとめるようなビジネスアワードは存在しません。ある意味、おかしいのです。

私がこんな人にあげたいな、と思うのは稲盛和夫氏、平井一夫氏、豊田章男氏といった経営者で歴史に残したい方々であります。(私の中では孫正義氏は人望や経営の美的感覚がないのでダメです。)キーは会社ではなく経営者個人であって会社はそこに付属的についてきたという意味合いです。日本の場合、肩書社会ですから〇〇株式会社を創設した誰々という表現がついて回ると思います。しかし、例えば稲盛氏は3社を経営されたわけで完全なる個人としての能力だと思っています。

ビジネスは金勘定という発想だけではなく、もっとアーティスティックなものもあるというスタンスからアワードが創設されればよいと思っています。そして日本のビジネスのベースを変えてみたいと思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年1月16日の記事より転載させていただきました。