厚底シューズを履いたマラソン選手が快記録を連発している。ついこのあいだの箱根駅伝でも話題になった。とりわけ、それまで圧倒的だったラドグリフの女子マラソン世界記録がコスゲイによって約15年ぶりに塗り替えられたのは衝撃だった。
その厚底シューズを認めないという動きが世界陸連(World Athletics)であるそうだ。The Times紙(「Nike’s record-breaking running shoe to be banned」(1月15日))などが報じている。似たような事例として水泳の水着問題があった。スピード社製の高速水着「レーザー・レーサー」が新記録を連発し問題となり、その後禁止された(これらの問題は、田村崇仁氏のコラム「箱根駅伝で「厚底シューズ」旋風、新記録連発で規制の動きも?」の解説参照)。
スポーツ科学が導き出した技術を靴や水着に実装した結果、記録が向上した。その何が問題なのだろうか。それはスポーツにおける「公正な競争とは何か」という問題と言い換えることができる。
例えばF1などの高速自動車レースでは、選手の力量だけでなく、エンジンや車体の性能やメカニックのスキル、スタッフのチームワークなど、総合的能力によって勝敗が決まる。「あの選手はエンジンのおかげで上位に食い込んでいる」などという指摘はあるかもしれないが、だからといってレース自体の有効性を問う声は出てこないだろう。
表彰が個人単位でなされるのに加え、チームとしての順位も付けられ、それがファンの強い関心事になっており、このスポーツの魅力を高めている。誰々のファンというよりもどこどこ(例えばフェラーリ)のファンという人も多かろう。
もちろん、F1にはF1のレギュレーション(技術規則)が存在する。それも詳細に、厳格に存在する。その範囲でギリギリの勝負をする。イノベーションが起これば、それがまた将来のレギュレーションに反映される。その繰り返しである。
「マラソンはシューズ製造会社の技術の勝負であって選手の力量は無関係である」という前提を置くことも理念的には可能ではある。ある同一の選手がシューズ以外は全く同じ条件(これは実際上不可能である)で走ったときの時間で競い合い、タイムの短い順で表彰する。そういう競争も競争である。
しかし陸上競技は「選手の競技」である。そこにツールの技術が絡んでくる。F1のように「選手とチーム」の「組み合わせ」で勝負しているのであれば、厚底シューズは大した問題にはならないのかもしれない。
問題は、レースをする側(見る側も含まれよう)に、「何の勝負をしているのか」ということについて「どのようなコンセンサス、共有化されたルールがあるか」ということに帰着する。競争の公正さにおいて重要なのは、合意された統一のルールの下にあるかどうか、である。スポーツにおける競争(勝負)とは共通のルールがあって初めて成り立つものであり、その解釈も共通のものでなければならない。そうしなければ比較可能にはならないし、勝敗を付ける根拠を失ってしまう。
悩むのは革新が起きたときだ。ルール上は禁止されていないが、誰も気づかなかった技法を始めた、あるいはある誰も使ったことのないツールを使った選手が新しい記録を出したとき、どう対処するか。
一つがその創意工夫を受容することである。それが有効な手法なら他の選手は真似をするだろう。その後、競技のスタイルがガラッと変わるかもしれない。走高跳や走幅跳における「跳び方」の技法はそのカテゴリーに入るだろう。そこで共有されている競い合い方のルールは、自力で走り、道具を使わずに高く、遠く跳ぶことにあるのであって、跳ぶ技法の変化はそのルールに形式的にも実質的にも反しないからだ。
もう一つが許されざる「想定外」としてその後ルールで禁止することである。禁止対象には指定されていなかったし、知られていなかった薬物であるが、禁止されているものと同様の効果と同様の危険を生じさせるものを使用した場合、がそれに当たるだろう。あるいはその結果をキャンセルすることである。この場合、そもそも「ルールに違反した」という扱いをすることになるが、それは「暗黙のうちに合意があったものに違反した」と理解をすることを意味する。
厚底シューズの問題は結局、何なのだろうか。陸上競技において暗黙のコンセンサスがあるとすると、それは一体どのようなものなのだろうか。ここで重要なことは、陸上競技の他のスポーツとの違いの一つは、レース自体の勝敗(競い合い)のみならず、過去の記録との比較という、もう一つの競い合いを展開しているということだ。
過去の記録を更新したとしても、技術的革新の前後で比較したところで果たしてどれだけ意味を有するのだろうか。野球の通算(あるいは年間)ホームラン記録も似たような 問題を抱えている。
だから急激な環境の変化は歓迎されない。特にアスリートの使う「ツール」の変化はそうである。
マラソン・シューズの技術は日々進歩している。アベベが裸足で走って、その後靴を履いた頃と比べれば、その性能は飛躍的に向上している。仮に2020年の技術が1960年代に突然導入されたらその当時の競技関係者はどう思うだろうか。
メーカーの提供する技術が突出して目立つと、心理的に抵抗感を抱く。選手の弛まぬ努力で10秒、20秒、時間をかけてギリギリ詰めてきたのに、シューズの性能で突然1分、2分短縮されてしまうとは…そういう感情なのだろう。
つまり、マラソンにおいては選手が主でシューズは従の役割が求められている、そういう「コンセンサス」がどこかにあって、メーカーの役割が急に目立つと、状況がそういうコンセンサスの射程外に置かれてしまう、そこに心理的な抵抗感(期待からの離脱)を覚えるのではないだろうか。
「新型シューズを皆、履けばよいではないか」という意見もある。無体財産権が絡むと独占という別の問題が出てきてしまうが、そうでなければ、そして安全性の問題がないのであれば、何が悪いのか、ということを説明するのは難しい。本人が走る以外の何かで勝負している、という批判をするならば、そもそも「靴を履くな」「同じ靴を履け」という極論に行き着いてしまう。
仮にメーカーが1年かけて実現した技術進歩が、練習方法の革新や肉体改造、走法や呼吸法の改善による1年分の記録の向上に匹敵するものだとするならば、それは受容されるべきものなのか。その技術進歩が10年分の記録向上を実現したらどうか。
問題の本質は、技術開発のスピードが早過ぎた、あるいは唐突過ぎたが故に、記録更新の「度合い」がアスリートの努力、工夫を相対的にキャンセルしてしまうほど大きなもの感じられてしまう、その「無力感」にあるといえるのではないだろか。
ルールの問題としてこれをどう論じるか。陸上競技のあり方を考えるいいきっかけにはなるだろう。
楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科教授
慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。