日本国憲法は、制定を巡って一つの問題がある。それは、この憲法が帝国憲法73条の改正手続きに従って成立した欽定憲法の形式を持つにも関わらず、前文にて「「日本国民は、……代表者を通じて行動し」、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と規定し、日本国民が国民主権の原則に基づいて制定した民定憲法である旨を宣言している。」(芦部信義「憲法」29頁)これは矛盾である。
この問題を言い換えると、天皇主権から国民主権への変更は憲法の構造の根本を変える事になる。(憲法改正限界説)
この矛盾を説明するために出されたのが昭和21年5月に、宮沢俊義によって発表された「八月革命説」である。
これは、ポツダム宣言を受託した事によって、この宣言12項の「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ」従った「責任アル」政府が樹立ことに決まった。この条項を受け入れて天皇主権から国民主権に移動したので、法形式的には帝国憲法の手続きに乗っ取っていても、主権は国民にあるので、国民主権のもとで憲法は成立したというのである。(宮沢俊義「憲法の原理」所収「日本憲法誕生の法理」二 八月革命の理論より著者要約)
この論に対して金森徳次郎憲法担当国務大臣は、帝国議会の審議で反論を行っている。芦辺信義はこれを八月革命説に対する「有力な反論」として自身の著作に大意を記している。
「ポツダム宣言を受託したからといって、ただちに天皇主権が崩壊し、国民主権主義が確立したのではなく、ただ明治憲法を国民主権主義の憲法に改めることを日本が債務として負ったにとどまる」(芦部「憲法」31頁)
芦部は金森の発言の日時を記していないが、昭和21年8月28日の貴族院本会議における浅井清の質問に対する答弁だと思われる。
なぜなら、ここにおいてまさしく芦部が記したほぼ同一の内容の発言があるからだ。
(以下「官報号外」昭和21年8月29日よる ただし漢字は新字体)
浅井はこの時およそ4つの趣旨の質問をしたが、その中の一つ「此ノ度ノ憲法改正ノ手続ノ合法性」について問うた。なぜなら、「我ガ憲法ハ欽定憲法」あり73条の規定によって「天皇自身ノ御発案」によって本案を提出したにもかかわらず、この改正案は「是ハ最早欽定憲法ニ非ズシテ、純然タル民約憲法」である。「欽定憲法カラドウシテ民約憲法ヲ制定スルコトヲ得ルヤ」大意、このような質問を発した。
これに対して金森はこう答えた。
「一番根本ノ議論ハ、「ポツダム」宣言ノ受託ニ依リマシテ現行憲法ガ如何ナル影響ヲ法律的ニ受ケタカト」と言う論点を提示して、「「ポツダム」宣言ノ受託ニ依ッテ、憲法上ノ天皇ノ統治権総覧者タル権能ハ変化ヲ直チニ受ケタト考へル意見ガアリマス」(八月革命説の事)が「「ポツダム宣言」ノ受託ヲ御覧ニナレバ分カリマスガ、日本ノ憲法ヲ直接ニ変ヘル」という規定はなく、将来において政治の基本組織が国民の自由なる意思に依って定まるようにしなければならない。「謂ハバ将来行フベキ義務ヲ日本ニ負ハセテ居ル訳デアリマス」
「本質的ニ申シマシテ、日本ノ憲法ノ七十三条二ハ何等ノ影響ハ生ジテ居ナイト考ヘテ居リマス」
大意、こう反論した。
ポツダム宣言の当該箇所を引用してみよう。
「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」(外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻1966年刊)
この条項は停止条件付き法律行為を定めている。すなわち、「前記諸目的」(ポツダム宣言5項から11項で要求された事)と12項の要求という「条件」が実現したら、連合国の占領軍を撤収させるという効力が生じると定めているのだ。したがって、ポツダム宣言を受諾しただけでは効力は生じない。まさしく、金森の言葉通り「将来行フベキ義務ヲ日本ニ負ハセテ居ル」のだ。
結局、「八月革命説」は成立しない。これは既に昭和21年8月28日に金森徳次郎によって論破されていた。私は、そう結論する。
◯官報号外およびポツダム宣言の条文は国立国会図書館 日本国憲法の誕生より引用した。
◯芦部「憲法」の金森の発言部分、「債務」を負ったとあるが、意図的に変えたのか、「義務」を「債務」と間違えたのか分からない。
吉岡 研一 ホテル勤務 フロント業務
大学卒業後、司法書士事務所、警備員などの勤務を経て現職。