持続可能な社会は可能なのか?

このところ「持続可能(Sustainability)」という言葉が世界中で多用されています。気候変動、格差社会、はたまた経済の持続といったところを含め、様々なシーンで使われます。この言葉の意味を端的にまとめてあるウィキを覗くと「一般的には、システムやプロセスが持続できることをいうが、環境学的には、生物的なシステムがその多様性と生産性を期限なく継続できる能力のことを指し、さらに、組織原理としては、持続可能な発展を意味する」とあります。狭義では環境問題が取り上げられやすいですが、本質的にはすべての社会現象について言えそうです。

ダボス会議2020サイトより

毎年この時期に開催されるスイスのダボス会議。世界中の首脳や経営トップがこの小さな街に集まり、社会のリーダーが行くべき道を学び、影響を与え合い、そして提言をしていきます。その会議の今年のテーマは「ステークホルダー(利害関係者)がつくる持続可能で結束した世界」であります。

ある意味、最もトレンディーである一方、的が絞りにくいテーマでもあります。ステークホールダーとはどのようなシーンでも起こり得ます。会社や政治から学校や管理組合、近所付き合いといったところまで全部利害関係者がいます。ところがその関係は必ずしもスムーズではなくなってきたのかもしれません。

会社では経営側と従業員だけでなく上司と部下の関係、政治では政治家同士や政治家と官僚、あるいは政治家と民があります。学校では教育委員会と学校と先生と親と子という利害が複雑に絡みます。マンションでは管理組合役員と住民ですが住民も賃貸目的から居住用の人まで様々です。それぞれがそれぞれの立場で物事を主張をするようになれば当然、答えを巡って紛糾するでしょう。

私が端的に感じる近年の社会の特徴は自己利益の実現であります。自分の利益を最大限にするためにあらゆる手段を使う、それには過去の踏襲すら顧みないこともあります。なぜ自我に目覚めたのでしょうか?個人的には他人の情報がよく見えるようになったことで刺激を受け、負けたくない気持ちにさせるのかもしれないと考えています。

これではまとまりを欠き、利害関係者が妥協点を探ろうとしてもなかなか難しいことになります。私はその端的な例がトランプ大統領のアメリカファーストの考え方であったと思います。自国に富をもたらすためにはどんなことでも厭わないという行動をいやというほど見せつけました。そのトランプ大統領はダボス会議に2年ぶりに登壇するようですが、どのような発言をするのでしょうか?

今年、大統領選を控えるアメリカでは社会のサステナビリティが一つの論点になるとみています。人間の思想は必ず揺り戻しがあるもので、過去4年間、アメリカの個人、法人は目先の利益を得る一方で、これでいいのか、何らかの疑問を持ち始めた人々が増えてきていることも事実です。

アメリカで物価が高くなり、家に住めず、キャンピングカー暮らしをする人々にスポットが当たりましたが、あれは極端な話だとしても社会にひずみが生まれていることは確かで、多くの人はそれに疑問を感じ始めています。

日本は持続可能社会の実現としては世界のトップレベルをいっていると思います。農耕民族としての徳なのかもしれません。狩猟民族である大陸ではさまざまな利害の中で常に勝ち抜き合戦をしていかねばならないところに持続ではなく、破壊し、作り直すという発想が垣間見て取れます。

世界が本当にサステナビリティを真剣に考えるのか、私はやや首をかしげないわけでもありません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年1月21日の記事より転載させていただきました。