ある閾を超えてテクノロジーが進化すると、本質的な変化が起きる。例えば、医療において、人間の生物としての仕組みの完全な解明が行われれば、症状から病因が直ちに特定され、最適な対処法が一義的に決定されるから、医学上の判断は不要になる。
これは、医師の替りにテクノロジーが判断するのではなく、全てが確実性のもとで既知になることで、判断そのものが不要になることである。なぜなら、判断とは、あるいは、決断とは、不確実なこと、未知のことについて、既知のことからの合理的な推論で蓋然性の高い答えを求めることだからである。
しかし、医療に限らず、どの領域でも、全てが既知になるには、まだまだ時間がかかる。当面は、未知なことについて、不確実性下で判断することになるが、その判断の精度は、テクノロジーの利用によって、向上させることができる。それが人工知能だ。
人工知能を備えたロボットは、人間のできない高度な判断をするのだろうか、それとも、人間のできる判断を効率化するのだろうか。どちらにしても、人間を不要にするのだろうか。
確実性下の問題は必然だから判断不要である。判断は常に不確実性下の合理的な賭けであり、決断である。故に、医学の極限のように、全てが既知になれば判断が不要になり、医療技術だけが残るのだが、経済や金融のような人間社会の問題は、人間の自由な創造性のもとで、永遠に未知な未来への賭けであり続けるから、判断はなくならない。
真の創造とは、過去からの断絶として、未来への飛躍として、根拠なきものとして、偶然により立ち現れるから、論理的に予測できない。それは人工知能を備えたロボットによっても不可能である。判断、というよりも決断というほうがふさわしいが、決断は永遠に人間のものであり、決断からしか社会の創造的進化は生まれない。
そして、何よりも、ロボットは責任を負わない。決断は責任と表裏一体であり、それは永遠に人間のものである。