教育改革と就活問題が一つのタイトルの中に納まってしまうこと自体がある意味、おぞましいことでありますが、日本では残念ながらこれをひとくくりにせざるを得ない悲しさがあります。
教育で今、取りざたされる最大の問題とは何でしょうか?思うに「自主的に考える」という行動を促すことの欠如ではないかと思います。
学校には先生がいて、生徒は黒板に向かい、先生だけを見る、そして先生と各々の生徒の関係はあるけれど生徒と生徒のラインはそこにはないのであります。なぜなら生徒は黒板に向かって座っているからです。つまり、先生を絶対的な師とし、30人の生徒とは弟子の関係を築いているといってもよいでしょう。儒教的であります。
先生の指導する答えは絶対であり、子供たちに「なぜ、〇〇はこういう答えなの?」と聞くと「せんせーがそう言った」というわけです。この時点で子供たちは考えることを放棄し、記憶容量の中に留めるだけの機能となっています。演算処理装置なんて必要なくなっているのです。
学校教育の無償化、はたまた大学への全入が報じられています。しかし、画一的な教育を高校まで施したうえで「〇〇大学株式会社で4年間在籍して学費をこれだけ払っていただければあなたの卒業は保証します。就職もよいところが見つかりやすくなります」という甘言で生徒が人気投票のごとく大学を選ぶ時代に皆、おかしいだろうと思っています。
実際、学校経営なんてドラマに出てくるような理事長が金の亡者になっているのは当たり前であります。ドクターXの学校版を想像していただいてよいでしょう。受験生を増やすのが戦略で、受験料一人3万円 X 1万人でしめて3億円、うっしししの世界なのです。
私は大学が就職あっせん会社になっている現状を変えるべきだと思います。それには「入りを優しく、出を厳しく」であります。開成中学高校の校長である柳沢幸雄氏も指摘していますが、1点差で合否の命運が決まるというのはおかしいのです。絶対評価でここまでできれば入学を認めるという程度でよいと思うのです。
ただし、大学内での進級、および卒業を目いっぱい厳しくするのです。たとえば結果として卒業できる人は全体の6-7割程度しかいない、4年で卒業できるのは5割しかいないというぐらい学業を推し進める教育体制に変えるべきなのです。
そうするとまず学生は就職活動どころではありません。企業の採用担当側も学生が卒業できるかわからないから青田刈りどころではなくなります。それこそ、最終年度に単位が取れるか、卒論に合格がつくかが運命の分かれ道という具合になります。
そして私は優秀な大学、いわゆる旧帝大系国立や私立の著名大学からこれをスタートしてもらいたいと思うのです。そうすると企業が優秀な人材確保の道筋を失い、当然、青田刈りではなく、十分に実ってからの採用になります。企業側も辞める人数を計算して頭数をそろえることで優秀な人事部との評価をもらうのですが、その評価基準そのものも私から言わせれば「サイテー」なのであります。
もう一点、切り口があります。それは大学の先生のレベルアップであります。大学の先生は割とびっくりするぐらい普通の方が教えていたりします。もともと教育者でも研究者でもない方が教鞭をとっているのが果たして正しいのでしょうか?
卒業させないほど厳しくするなら大学の教授陣のレベルも上げないとバランスが取れません。私はこのレベルアップも早急に進めないと日本の教育は崩壊すると思っています。
大学はテクニックではなく、アカデミックなことを学ぶところだということをもう一度認識すべきです。テクニックなら専門学校でよいという住み分けをきちんとすべきでしょう。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年2月2日の記事より転載させていただきました。