野村克也さんの球界の地位を上げたイノベーション

新田 哲史

プロ野球で戦後初の打撃三冠王を獲得し、引退後は監督としてヤクルト、楽天などを率いる名将として知られた野村克也さん(84)が亡くなったことが11日、明らかになった。

NHKニュースより

野村さんの苦労人としての歩みはプロ野球ファンには改めて語るまでもないと思うが、京都北部の田舎町に生まれ、父親は戦時中に死去。母子家庭で貧しい環境にもめげず、テスト生として1954年、南海に入団した。そうした身の上を「月見草」に見立て、六大学から巨人に華々しく入団した同学年のスター、長嶋茂雄さんを「ひまわり」にたとえたことはあまりにも有名だ。

ただ、「凡才」だからこそ努力を惜しまず、のちのID野球につながるデータを徹底活用する、といった野球への地道な取り組みが、不世出の捕手として実働27年、45歳までの選手キャリアへの道をつくり、さらには引退後の監督マネジメントの礎をつくった。

現役引退からヤクルトで監督になるまで10年のブランクがある。主に解説者として活動していたが、この間、著書や講演などで現役時代に培った戦術眼や凡人としての知られざる「創意工夫」を披露した。野村さんのノウハウは、経営者をはじめ、世のビジネスパーソンにも広く支持され、スポーツ指導者のマネジメント術を、実社会のビジネスマンが学びの一つにするというジャンルを切り開いた。

グラウンドでも斬新な戦術を編み出した野村さんだったが、野村さんが一般社会に自らの奥義を普遍化したことで、プロ野球が国民的娯楽としての地位を確固とし、ひいてはスポーツ界の社会的評価も大きく上げる「イノベーション」だった。野村さんの「知将」としての貢献度は、この点でも計り知れなかった。

歴代の名物野球記者たちのように、数年で野球取材の現場を去った若輩の私が、個人的視点で話をするのは大変恐縮だが、運動部記者時代、ロッテ担当だったこともあって、敵将の楽天監督だった野村さんを直接取材する機会は残念ながらあまりなかった。

ただ、2009年シーズンはロッテが下位で敗退し、楽天は球団創設後初のクライマックスシリーズに進出を果たしたことで、私はファーストステージの応援取材で仙台に出張した。このとき、4番打者の山崎武司選手が勝利を決定づける2ランを放った直後のシーンはいまでも覚えている。日頃冷静なことで知られる野村監督がベンチで山崎選手を迎えた時に抱き合ったのだ。あまりにも珍しいことだったので「あの野村監督と抱き合った」と記事に書いた。

当時の野球中継より

覚えている方も多いと思うが、楽天はこの年をもって監督交代を決めていた。山崎選手がその試合後に「1日でも長く野村監督と野球をやりたい」と話していたのには楽天ファンならずとも感動した人は多かったと思う。ヤクルトの監督時代は、厳しくクールなイメージが強かったが、良い意味で情のマネジメントで結束していたことを感じさせた。

監督としてはヤクルトを率いて、当時最強の軍団だった西武と1992、93年の2年連続でぶつかった日本シリーズが印象深い。森祇晶監督との史上最高峰の知将対決の裏に隠された数々のドラマは、当事者がのちに明かしているが、内野ゴロで1点を取りに行くために、三塁走者のスタートをいかに絶妙に切るかといった、素人目ではすぐには見分けがつかないプロの奥義を凝縮したシリーズでもある。あの2年間のシリーズは、きっとまだ掘り当てられていないこともあるはずで、これからも野球関係者の「手本」にもなるのではないか。

慎んでご冥福をお祈りします。