新型コロナウイルス騒動では、ダイアモンド・プリンセス号での少なからぬ感染者発生もあって「検疫」が話題だ。3千数百名もの方々が、本来のクルーズ目的には十分だが、この事態を措置するには不十分な広さでしかない船内で2週間も過ごすご苦労は想像を絶する。どうかもう暫くご辛抱のうえ、多くの方が無事下船なさることを祈りたい。
他方、震源地の中国では10日夜の環球時報が「Public health education needed amid virus outbreak(ウイルス発生の中、公衆衛生教育が必要)」との記事を載せるなど、(何を今更と思うが)ここへきて「公衆衛生」の重要性PRに中国が躍起だ。
「検疫」や「公衆衛生」と聞いて、筆者の頭には後藤新平(1857年-1929年)の名が先ず浮かんだ。で、彼について書いていたら、11日の産経デジタルが、湯浅博氏のコラム「公衆衛生を優先した“大風呂敷”」を載せた。あらま残念、と思ったが、読むとトピックが重ならないので、そのまま投稿する。
歴史研究書には余り載っていないような本稿で書く後藤のエピソードの多くは、娘婿である鶴見祐輔(1885年-1973年)の大著「正伝 後藤新平」(藤原書店)と杉山茂丸(1864年-1935年)の「児玉大将伝」(中公文庫。初出は1919年)に拠った。
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自由民権運動を主導した板垣退助(1937年-1919年)が暴漢に刺された際(82年)、官命で駆け付けた年少気鋭の医者がいた。「板垣死すとも・・」の岐阜事件だ。現場での不完全な応急処置を見たその医者は、板垣の着ていた高価なラッコのチョッキを臆することなく切り裂いて、果断に手術を施した。
この医者こそ当時20代半ばの後藤新平。板垣は彼の手を握り「君を医者にしておくのは惜しい。政治家の資質がある。医者より政治家として成功したまえ」といい、後藤の胸にも「人の病より国家の病根に手術を施すという心が烈々として満ちた」と、杉山はその場に居合わせた如く書く。真偽のほどは不明だが、如何にもありそうだ。
その後、後藤は海外留学を経て内務省衛生局長氏就任する。が、95年に相馬事件(藩主相馬誠胤の死を毒殺と疑った藩士の錦織剛清が、相馬家関係者から誣告罪で訴えられ有罪となった事件。錦織を庇護した後藤の教唆が疑われた)に連座し、暫時入獄のあと蟄居した。
時に日本は前年7月からの日清戦争に勝利し、下関での講和条約を4月17日に控えていた。前月に大本営陸軍参謀に異動していた児玉源太郎陸軍少将は、4月1日に臨時陸軍検疫部長兼務を拝命する。大陸や朝鮮半島に出兵していた数十万の兵員などを復員させるべく、検疫を行うためだ。
大国清を屠ったものの、まだ東洋の一小国に過ぎない日本が、初の大規模検疫をどう行うか世界が注視した。児玉は、前の衛生局長であり中央衛生委員に復帰していた後藤に、検疫実務を任せる事務官長として白羽の矢を立てた。その時のやり取りを杉山はこう書く。
後藤-検疫事業は軍人に対して行うのですから、金ぴかの軍服をつけていなければ彼らを制馭することは出来ぬです。僕は無官の一浪人、到底その任ではありません。
児玉-文官が軍人を指揮したり、駕馭することの出来んことはない。出来る例を君が示したらよかろう。威厳の保てるように官制は宜しく起草させるから、思う通り決行したまえ。
後藤-よろしい、やりましょう。斃れて後已むの決心でやります。
2ヵ月掛けて後藤は「この大演劇の大道具小道具、表方から楽屋までの全てを完備させ、鼠木戸の戸締りさえ落とさない」(杉山)準備を整えた。6月初めに始まった検疫は10月末に終えた。5ヵ月間に検疫した数は、兵員232,346人、船舶687隻、物件932,079点の多きに上り、費用は160万円だった(杉山前掲書)。これ以外にも数万余の軍馬などの検疫もあったに相違ない。
ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、後に謁見した日本の軍医正に対し、「この検疫事業は無上の大成功である。日本は軍隊が強大であるばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆したという。欧州列強はこの大検疫事業をこのように興味深く見ていた。
事業を成功させた後藤に、児玉は黄金の冠を贈った。が、中から出てきたのは数百通の手紙で、どれもが児玉検疫部長に宛てた後藤非難の密書だった。その何れも官職氏名を明記してのものだったが、一度信頼した以上は決して疑わない美点から、児玉がそれらに心を動かされることはなかった。
こうして後藤の人格と手腕を再認識した児玉が台湾総督を拝命した際に、その片腕たる民生長官に後藤を据えることを条件としたのは、当然の成り行きといえた。
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児玉の台湾総督拝命は下関条約から2年10ヵ月後の98年2月末。その間の台湾は樺山資紀(在任95年5月-96年6月)、桂太郎(96年6月-10月)、乃木希典(96年10月-98年2月)の総督三人が土匪(清軍残党や台湾郷士)の反乱や原住民理蕃(教化)、そしてマラリア退治などに難儀していた。
清の李鴻章にしてからが、風土病が猖獗する三年小乱五年大乱の「化外の地」として持て余すほどの台湾の統治に、児玉・後藤コンビが8年余り当たることなかりせば、21世紀の今日の台湾もなかった、と筆者は思う。それほどこのコンビの台湾統治は実績を上げた。
児玉は00年暮れに台湾総督兼務のまま陸相(2年3月に辞任)を拝命、3年7月に内相を兼務した。同年10月には陸相経験者ながら異例にも参謀本部次長に就任、日露戦争で活躍したことは人口に膾炙する。6年4月に参謀総長就任と共に台湾総督を免ぜられるが、その年の7月に脳溢血で急死した。
このように台湾総督でありながら政府や軍で八面六腑の活躍をした児玉に代わり、その信任を受けて台湾を治めたのが後藤民生長官だった。立派に検疫事業を成し遂げた95年以来の後藤に対する児玉の信頼が、台湾統治の8年間でもずっと続いていたからこそのことだった。
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児玉・後藤コンビの台湾統治は、児玉が、医者の後藤らしい「生物学的原則」、すなわち日本式を押し付けず現地の習俗に合わせた政策、に任せたことが有名だ。が、筆者は、前三代の総督が苦労した土匪や原住民の討伐の前に、とかく横暴で差別的との評判のあった総督府の官吏1,080人を一挙に馘首し、有能な若手(新渡戸稲造ら)を招致したことも挙げたい。
後藤は彼らを使って徹底的な現地習俗の調査を行い、その上で三大事業(道路鉄道整備・築港。土地調査)や三大専売(樟脳・塩・阿片。後に煙草を追加)を実施した。土地調査では、見つけ出した隠し田27万甲を含め62万甲を登録した。これらの調査は今日も清国・中国学の研究に貢献している。
中でも阿片の「漸禁策」は医者である後藤の真骨頂。伊藤潔の「台湾」(中公新書)によれば、阿片はオランダによってバタビアから台湾経由で大陸に伝播した。20世紀初めの台湾では、年間205トンの阿片が17万人の中毒者によって費消されていた。
当時、阿片吸引は裕福な風流人の嗜みで、これを無理やり禁じることの困難を悟った後藤は、販売を専売制にし、土地の有力者に権利を与えつつ治安維持も委任した。買う側は、既に中毒している者にのみ購入免許を与え、新規の免許付与を禁じた。斯くて日本統治中に台湾から阿片中毒は根絶された。
台湾の公衆衛生観念や治安の良さは、こうした日本統治期に培われた面が少なくない。約束や時間を守る習慣や民主主義も然り。他方、中国国民は今回の惨禍から何を学ぶだろうか。願わくは民主主義や言論の自由の重要さであって欲しい。日本政府にも、後藤に倣った立派な検疫をお願いしたい。