抑圧の結果としての二・二六事件
この時期になるとやはり二・二六事件が話題になる。
二・二六事件というと青年将校の「純粋さ」が注目され、これが同事件に「物語」性をもたせている。
事件を題材にした作品は多数あるが、例えば「凛々しさ」が目立つ俳優の本木雅弘氏が青年将校役を演じた事実(参照:Wikipedia)は、この事件が1930年代の陰鬱な格差社会に憤怒する若者の悲劇的行動とみなされている、あるいはそうであってほしいという願望が窺える。
確かに青年将校には「純粋さ」があったかもしれないが、もちろんことはそう単純ではない。青年将校がクーデターという究極の政治表現、政治参加した背景には彼らの政治参加が通常のそれよりも制限されていたからである。
よく知られている「軍人勅諭」は軍人の政治不関与を命じているし、これ以外にも一般の現役軍人は選挙権・被選挙権、政治的言論の発表、政治集会、結社の結成などすべての政治参加の機会を禁じられていたのである(1)
我々はなんとなく帝国軍人、特に満州事変以降の陸軍は政治活動が甚だしいという印象があるが、それは軍人個人の政治活動が制限されていた裏返しでもある。
軍人個人としての政治活動が制限されるならば、その反作用として軍が組織として政治活動を行うことはなんら不思議なことではない。
青年将校はそんな陸軍内部の主導権争いに敗れ追放され、クーデターという究極行動を通じて陸軍内部に再度、参加したのである。
不当な攻撃が不当な行動を招く
満州事変以降、圧倒的な存在感を示した陸軍だが、同事変前は大変な苦境にあった。大正期には陸軍の大規模な軍縮が実施され、軍人の昇給も抑えられた。また、市中では軍人が軍服を着ることも憚れた。
ある軍人の証言によると「軍人に対する国民の眼は近時憎悪から侮蔑へと大きく変わった。」(2)とし「軍人といえば、片っぱしから罵倒する様な風潮」(3)だったという。このように満州事変前の陸軍への批判は単なる批判を超えた侮蔑・侮辱の類だったのである。
一度、社会から疎外された軍人が満州事変を機に再度、社会から脚光を浴びるようになったわけだが、苦渋を舐めた彼らが抑制的になるはずがなかった。
不当な攻撃(侮辱・侮蔑)を受けた勢力がその反動で不当な行動(単独行動主義)に出たのである。
軍隊が不当な行動に出た場合、それを掣肘するのは難しく、また、陸軍の場合、不当な行動に出たのは海外駐屯部隊(関東軍)だったから更に面倒だった。しかも大日本帝国には「統帥権の独立」があった。これでは政府は引きずられるだけである。
品位・品格ある言葉を
今の自衛隊は自衛官個人の政治活動は制限されているが一応、選挙権は保障されているし組織としては文民統制が定着しておりその政治力は限定的である。
今は昭和期と異なり自衛隊の存在自体を否定する勢力も少数である。
護憲派の多数派は自衛隊の存在を渋々ながら認めているが、それはあくまで世論を意識してのことであり真の意味で存在を認めているとはとても思えない。
例えば憲法学者の石川健治・東京大学教授は自衛隊について「正統性に疑いをかけられた組織は、世間から後ろ指をさされることがないように、常に身を慎むことになります」(4)と論じている。
しかしなぜ、自衛隊に「疑いをかける」ことを正当と考えるのだろうか。自衛隊に「疑いをかける」ことが「統制」に繋がるとでも思っているだろうか。
他人に「疑いをかける」ことが正当とは驚くほど低次元な考えであり、単なる侮辱・侮蔑に他ならない。
筆者から言わせれば石川教授は大正期に陸軍軍人を侮辱した一臣民と同レベルである。どんなに贔屓目にみても自衛隊に「疑いをかける」ことができるのは戦争体験者ぐらいだろう。
「戦後生まれ」の者が具体的な根拠を示さずに自衛隊に疑いをかけても「何か自衛隊にされたのか?」と問われるだけである。
平和・安全保障議論とは雑駁に言えば「他人のために犠牲になる」ことを論ずることである。そのような分野で侮辱・侮蔑の言葉は議論を破壊するだけである。
平和・安全保障議論で求められるのは侮辱・侮蔑の言葉ではなく品位・品格のある言葉であり学者なら尚更である。
この部分を曖昧にしておけば再度、二・二六事件のような過激分子による直接行動が起きることも否定できない。もとより筆者はそのような行動に強く反対する立場である。
自衛隊を正当に評価せよ
今、必要なのは自衛隊を正当に評価し「普通の軍隊」にすることである。具体的には自衛隊の存在を「議論の余地がない」水準で認め、集団的自衛権もまた全面的に認めることである。
そのためにも改憲が必要であり、具体的には9条2項の削除が最も望ましいが政治的現実を考慮すれば安倍首相が提案した自衛隊の存在を憲法に明記する「9条加憲案」が世論の了解を得られる最低ラインだろう。
もっとも政治的現実をより真摯に受け止めれば反自衛隊勢力は国会運営、政党のガバナンスといったルールが曖昧な分野を悪用して存在しているようなものだから、これらの正常化がまず先かもしれない。
注釈
- 筒井清忠「二・二六事件とその時代 昭和期日本の構造」338頁 ちくま学芸文庫 2006年
- 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」133頁 中公新書 2018年
- 同上 134頁
- 2017年 5月21日 中日新聞