海洋放出の早期実現にはマスメディアの協力が必要だ

GEPR

河田東海夫
元原子力発電環境整備機構(NUMO)理事
元核燃料サイクル開発機構(JNC)理事

海洋放出を前面に押す小委員会報告と政府の苦悩

原発事故から9年目を迎える。廃炉事業の安全・円滑な遂行の大きな妨害要因である処理水問題の早期解決の重要性は、国際原子力機関(IAEA)の現地調査団などにより早くから指摘されてきた。それが未だ解決されないまま、巨大タンクが増殖し続け、サイトを埋め尽くしつつある。

そうした現状は、新型ウィルス問題とは性格が異なり、国民各自が自覚できるかどうかは別として、一つの国家的危機であり、解決を先延ばしすればするほど事態は悪化する。

福島第1原発のALPS処理水タンク(経済産業省・資源エネルギー庁サイトより:編集部)

福島第1原発のALPS処理水タンク(経済産業省・資源エネルギー庁サイトより:編集部)

海洋放出が処理水問題解決の唯一の現実解であることは、2代の原子力規制委員長がたびたび指摘してきた通りであり、この問題を3年にわたり検討してきた小委員会の報告書(2月10日公表)も、実質的に海洋放出を押す勧告内容となった。

2月末に来日したIAEAのグロッシー新事務局長も「国際慣例に沿っている」として放出を支持した。海洋放出の早期実現に向け具体行動を起こすべきべき時が到来している。

海洋放出を阻む唯一の障害要因は、言うまでもなく漁業関係者の風評被害に対する恐れである。

福島県漁連の野崎会長は、2月19日に開かれた経産省の廃炉・汚染水対策福島評議会で、小委員会報告では海洋放出の食品影響などの説明が不足しているとし、「現状では環境へのトリチウム放出には反対との立場をとらざるを得ない」との意見表明を行い、提示された風評被害対策についても「具体的施策が見えず納得できない」と反発した。

処理水の処分方式の最終決定は政府に委ねられるが、漁業関係者の不安解消の決定打を見出だせない政府の苦悩はもうしばらく続きそうだ。果たして、こうした状況を打開する方策はあるのだろうか?

海洋放出断念では福島県民は幸せになれない

海洋放出の大きなメリットは、膨大な数の巨大タンクの解体撤去を最も早く開始できることである。

巨大タンク群は今や福島の不幸の視覚的な象徴とも言え、これらを一日も早く無くすることは、福島県民のメンタルな復興促進の面からも、また東電の廃炉作業への精力傾注の面からも、ぜひとも達成しなければならない喫緊の課題であり、それを可能とするのが海洋放出なのである。

確かに、海洋放出は漁業関係者への風評被害を招くが、放出が終わってしまえば、風評を起こす原因が無くなる。漁業関係者にとっても「後顧の憂い」をなくせる選択肢であり、その点は無視しがたいメリットとなろう。海洋放出は、時間的にも最も短期間で問題解決できる選択肢であり、処分に要する期間が短ければ短いほど風評被害の継続期間を短縮できる。

一方、海洋放出を断念した場合の行き着き先はタンク保管の長期継続でしかない。

そうなれば、タンクの継続的増設も避けられず、地元との再折衝や増え続けるタンクにおける処理水管理の負担増大で、本来の廃炉事業の円滑な推進の足枷要因がさらに膨れる。

結果的に計画遅延や小トラブル増加で、「いつまでたっても事故後の後始末が進まない福島」、「不幸な福島」といった暗いイメージがさらに長期的に定着してしまうリスクが高い。

膨大な数の巨大タンク存続は、脱原発団体による格好の不安アピール材料であり、将来の風評被害の火種温存でもある。その時限爆弾的リスクからいつまでも解放されない状況を固定化してしまうのは漁業関係者にとっても決して望ましいことではなかろう。

十分な安全性に加え、これらのことを総合的に思料すれば、「徹底的な風評被害対策(被害補償を含む)を講じた上での早期海洋放出」が、究極的には福島県民や漁業関係者にとっても最も望ましい解になるはずだ。こうしたことは、おそらく漁業関係者自身も内心では理解していることであろう。

度を過ぎた不安情報発信で世の中を乱すのは社会的犯罪だ

漁業関係者が心配する風評被害は、放射能に対する人々の漠然とした不安が社会にもたらす実害であり、彼らはその直接の被害者である。

処理水問題の早期解決は、福島の復興にとって今や喫緊の課題であり、その合理的解決が風評によって阻まれている現状は、福島県民のみならず日本国民にとっても由々しき事態である。その意味で福島県民や日本国民全体が風評の被害者といえよう。

そうした被害の発生原因である風評は、決して自然発生するものではなく、過剰な不安情報の発信者とそれを拡散するものとがいる。原子力や放射線に関する安全問題は一般人には科学的正確性の判断が難しいため、個人がSNSなどで不安情報を発信し、それが拡散して風評を生むことはある程度止むを得ない。

しかし現実には、脱原発を目指す個人や団体が故意に住民や国民の不安を煽るためにそうした情報発信をするケースが少なくない。筆者は、人々には様々な価値観があるので脱原発運動自体はそれなりに社会的存在意義があると思う(ただし、筆者個人は脱原発には賛同しない)。

しかしあまりにも実態からかけ離れた不安情報の発信であり、かつそれが社会に実害をもたらす場合には、それはもはや社会的犯罪といわざるを得ないだろう。

風評の発生源と拡散

トリチウムの環境放出に関する安全性については、小委員会の場で、仮にタンクに貯蔵中の全量相当のトリチウムを毎年放出し続けた場合でも、公衆の被ばくは日本人の自然界からの年間被ばくの千分の一以下にしかならないとの試算結果が示された。安全上全く問題ないレベルであることがあらためて国民に明示されたのである。

残念ながら巷間では脱原発支援者によるトリチウムの危険性を過剰に煽る言説がネット上などで広く拡散している。そうした情報発信の急先鋒は、北海道がんセンター名誉院長の西尾正道氏である。

彼が主張するトリチウムの内部被ばく脅威論や、原発周辺での健康被害多発論は、科学者倫理にもとる事実の歪曲や巧妙な情報操作に満ちている。彼の主張の欺瞞性や非倫理性は別稿で詳述するが、それらは脱原発支援者には広く共有されており、小委員会が2018年夏に開催した公聴会でもそうした意見が出た。彼の肩書が立派だけに、影響力が大きい。

脱原発を標榜する大手メディアは、西尾氏の主張に共感を示す報道傾向がみられ、その具体例として昨年9月23日の毎日新聞のコラム「風知草」や9月25日のテレビ朝日「羽島慎一モーニングショー」を挙げることが出来る。

無節操に西尾氏の歪んだ情報の肩を持つメディアは、自覚しているか否かは別にして立派な風評拡散役を務めている。マスメディアは情報の調査・収集のプロである。その気になって調べれば西尾氏の言説が過激なアジテーションに過ぎないことは容易にわかるはずだ。

新聞のコラムやテレビのワイドショーなどは、一般大衆への影響力が絶大で、政府広報など比べようもない。それだけに、社会が問題を抱えたときには、歪んだ情報の肩を持つことで風評を助長することにならないよう、ぜひ心がけていただきたいものだ。

誰もが風評抑止を議論することを避ける不思議な言論空間

小委員会報告が提示する風評被害対策では、政府の「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」や東電の「風評被害に対する行動計画」と被害補填を含む経済政策などが掲げられている。

それらがいずれも重要な施策であることには異論はない。

しかし現実には、いくら丁寧に正確な情報普及に努めても、一旦トリチウムの環境放出となれば、間違いなく脱原発の活動家や韓国などが放出に反対してトリチウムの危険性を大きく騒ぎ立てるのは目に見えている。

そうなれば、地道な情報普及活動の成果など一挙に吹き飛び、甚大な風評被害を招くことは想像に難くない。地元筋からは、漁連の本当の心配はその点にあるとの見立ても伝わってくる。

しかし、小委員会のみならず、大手メディアを含む公開の言論空間で、風評の直接原因である脱原発派の過激言動を抑えようとの主張は全く出てこない。今日の日本では脱原発派の言動を公の場で正面から批判することをタブー視化する風潮が定着してしまっているのである。処理水問題の早期解決が国民全体にとっても重要課題となっている状況下で、これは極めて面妖な風潮といわざるを得ない。

脱原発の活動家がトリチウムの危険性を煽るのは、一部にそれを純粋に信じている人もいようが、現実には脱原発運動の戦術としてそうする側面が強い。

福島の不幸な状況や、国と地元との亀裂がいつまでも解消できない状況は、脱原発運動の正当性を訴える最も効果的なツールなのであり、それらが解消されては困るのである。脱原発運動は、福島県民に寄り添うふりをしつつ、実は自分たちの運動用ツールとして福島の不幸を弄んでいるのである。

新型ウィルス問題では、メディアは一斉に風評抑制キャンペーン

新型コロナウィルスの感染が世界的に拡大する中、2月初旬の中央各紙は一斉に社説等で冷静な対応の重要性を訴えた。

デマ、差別を生まない情報発信を」(2月8日毎日新聞)
合理的な対策を着実に」(2月5日朝日新聞)
正確な情報で冷静な対応を」(2月8日読売新聞)
デマを排し正しい情報を」(2月5日産経新聞)

毎日の社説を例にとれば、「デマや不正確な情報は、社会の不安をあおり、混乱を招く」とし、「そんな事態を避けるには、公的機関や専門機関による正しい情報のこまめな発信が欠かせない」、「事実でなければ、即座に修正していくことも重要」と訴えている。

最近は消費者の買いだめ騒動が起きているが、それでも今日のレベルで収まっているのは、マスメディアが消費者に冷静な対応を促す報道をすることで事態さらなる悪化防止に協力しているからである。危機的状況下での過剰反応による社会不安や混乱の抑制に協力するのは、天下の公器であるマスメディアの当然の役目といえよう。

処理水問題でもメディアが風評抑制キャンペーンを始める時だ

処理水問題の現況は、新型コロナウィルス問題のように国民個々人が自覚することは難しいが、一つの国家的危機であることには違いはない。その解決を阻んでいるのが風評被害であるが、そもそも風評被害の大小は、その時々の社会情勢が生み出す風向きに大きく左右される。

その風向きには必ず時の政府への不信感が一定量混じり込むので、政府側の情報発信や働きかけは原理的に大きな効力を発揮しえない。そうした風向きを変えられるのは、マスメディアの力でしかない。今こそ、処理水問題についてもマスメディアが風評とその被害の抑制に向けて立ち上がるべき時だ。

原子力利用の是非については、メディア間でも意見が割れているのは事実だが、ここではその問題は一旦横に置き、「今そこにある危機」と福島県民の不幸要因の早期解消に向けて、全国民に協力を呼びかけようではないか。

新型コロナウィルス問題で、風評の抑制を訴え、生活用品の買いだめを諫める様に、処理水問題についても、風評の抑制を訴え、福島産海産物の購買忌避を諫めることで、全国民による福島漁業関係者支援を盛り上げようではないか。

政府には、現在流布されている過激なトリチウム危険論は悪質な風評であるとの明快なメッセージを国民向けに発信することを求めたい。

また、放射線防護や放射線生物学の専門家集団には、過激な危険論を正し、想定される条件下でのトリチウム放出では健康影響を生ずる恐れはないとのステートメントを公表することで、政府のメッセージを補強していただきたい。

韓国の悪意に満ちた言動も風評被害源であり、政府には今まで以上のしっかりした対応をお願いしたい。

最近某紙で「感染防止、社会の『連帯』で」との記事を読んだ。処理水問題でも「風評被害防止、社会の『連帯』で」との「風向き」をマスメディアの力でぜひ形成していただきたい。

以上述べたようなことが実現しても、風評被害が完全になくなることはない。

しかしそれでも、いざ海洋放出という場合に予想される反対派の過激な言動には一定の抑止効果が期待できよう。さらに国民の漁業者への支援姿勢が見えてくれば、彼らの無力感は緩和されよう。

そうなれば漁業関係者は、一定量の痛みは覚悟のうえで、処理水問題の早期解決、すなわち海洋放出に前向きに応じてくれるものと筆者は確信する。

2017年夏、福島を訪れたカナダ・マクマスター大学の大学院生一行は、福島県漁連の若手漁師7人との意見交換を行った。学生を引率した教授によれば、漁師の皆さんはトリチウム問題についてはとてもよく勉強しており、考え方も大変合理的であったという。

(蛇足)海中放出管方式について

本文中に述べたように、処分に要する期間が短ければ短いほど風評被害の継続期間を短縮できる。

しかも、全量のトリチウムを1年で海洋放出しても被ばく線量的には全く問題ないこともわかっている。したがって、海洋放出にあたっては、トリチウムの年間放出量に無意味な上限を設けることはぜひ避けていただき、処理水の再浄化の能力を極力高めることで、できるだけ短期間での放出を目指していただきたい。

小委員会の検討では、原子力発電所の通常の排水口方式がイメージされているが、個人的には再処理工場のような沖合での海中放出管方式のほうが望ましいのではないかと考える。漁場との関係でどんな問題があるかは承知していないが、海流でより早く放出地点から遠くに拡散するメリットがある。

感覚的にもトリチウムがそこにいつまでも留まるとの心配は無用ということが理解されやすい。こうしたオプションも漁業関係者との相談のテーブルに乗せることを勧めたい。