新型コロナウイルスと「神」の行方

南欧イタリアで21日、793人が新型コロナウイルス(covid-19)が原因で死去した。欧州の地で、戦争時でもない時、このように多くの国民が1日で亡くなったことは戦後では初めてのことだ。それだけに、イタリア国民だけではなく、欧州全土で大きな衝撃と不安を呼び起こしている。

▲ウィーンの夜明けの風景(2015年11月、ウィーンの自宅から撮影)

欧州のファッションのメッカ、イタリア北部ロンバルディア州の州都ミラノやベルガモ市で多くの人が亡くなっている。中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルスの猛威に恐れを感じる国民が増えてきた。

中東や北アフリカ諸国では内戦、飢餓、テロなどで毎日多くの人が亡くなってきたが、バルカン諸国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後、欧州の地で連日多くの犠牲者がメディアで報じられるといった事態はこれまでなかった。少し変な表現だが、欧州国民は大量の死者が出る出来事に慣れていない。だから、イタリアから連日発信される新型肺炎の犠牲者の訃報は、ボデーブローの連打を受けたボクサーのように、欧州人の精神世界に致命的な痛みを与えてきている。

欧州社会は本来、キリスト教社会に属し、キリスト教文化を築いてきた。至る所に教会の建物があり、朝はミサの時を告げる教会の鐘の音が響き渡る社会だ。自然災害やスペイン風邪などが発生すれば、欧州の人々は自然に神に向かい、その救いを求めてきた。

例えば、ポルトガルの首都リスボンで1755年11月1日、マグニチュード8・5から9の巨大地震が発生し、同市だけで総数30万人が被災した。文字通り、欧州最大の大震災だった。その結果、欧州全土は経済ばかりか、社会的、文化的にも大きなダメージを受けた(「大震災の文化・思想的挑戦」2011年3月24日参照)。欧州でペストが猛威を振るった時もしかり、人々は神に救いを求める一方、神の不在を嘆く声が聞かれた。第1次、第2次世界大戦時までそうだった。

第2次世界大戦後、欧州のキリスト教社会は急速に世俗化し、教会の権威は多発する聖職者の未成年者への性的虐待事件で地に落ちた。信者の数だけではなく、神父の数も年々減り、日曜日の礼拝すら開くことが出来ない教区が出てきた。キリスト教の教え(福音)はせいぜい「伝統」に留まり、「信仰」として定着することはなくなってきた。

欧州で神を見失う国民が増える一方、神から離れていく教会、聖職者が出てきた。そのような時、中国武漢発の新型コロナが欧州の地に侵入し、猛威を振るいだした。欧州では当初、新型コロナウイルスの脅威を軽く見ていた。インフルエンザと同様、季節性の伝染病であり、今年の復活祭を迎える4月までには感染のピークは過ぎるだろうと楽観視してきた。

世界のウイルス専門家たちは新型コロナを治癒する薬品の開発に乗り出しているが、「治療薬、ワクチンが実際、患者に投与できるまでには早くて1年から1年半の時間はかかる」という。悲観的な専門家は、「新型コロナ回復者が再発している現象をみると、新型コロナ回復者に抗体がない場合が考えられる」と指摘、感染回復後も人体に抗体ができない全く新しいウイルスではないか」と受け取っている。

欧州の各国政府は新型コロナ感染防止のため、手を洗うこと、人と人の間は1mから2mの距離を取り、5人以上の人々が集まることを止めるように、国民にアピールしている。一方、欧州国民の中にはマスク、消毒液、トイレットペーパーの買い出しでスーパーに殺到する姿が見られた。

欧州キリスト教会は、新型コロナの感染防止のため、礼拝をビデオ礼拝に変え、信者たちの交流を控える対策に乗り出した。すなわち、羊飼い(聖職者)は羊たち(信者たち)に「飼葉納屋に留まり、外に出てこないように」と説明。教会入口は閉鎖され、神父は信者との接触を避ける。そして信者には「神父に直接罪を告白しなくても、罪は許される」と説明し、信者を説き伏せている。

バチカン・ニュースが18日報じたところによると、世界に13億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会の最高指導者フランシスコ教皇はイタリア日刊紙ラ・レプッブリカとのインタビューの中で、新型肺炎で苦しむイタリア国民への連帯と隣人愛を説き、「私は主に、この伝染病を一刻も早く終わらせてくださいと祈った」と述べている。

リスボン大震災時で多くの欧州国民が犠牲となった時、彼らは神に「あなたはその時、どこにおられたのか」と問いかけた。600万人の同胞を失ったユダヤ人の中には同じように「アウシュビッツの時、あなたは何をしていたのか」と問いかけた人々もいた。しかし、フランシスコ教皇は「なぜ新型コロナウイルスで多くの人々が亡くなるのですか」、「主よ、なぜ新型コロナウイルスを終息させないのですか」とは祈らない。ペテロの後継者、ローマ教皇は神に負担となる問いかけを常に避けてきた。

貧者の修道女、マザー・テレサは私的な書簡の中で「あなたはいずこに?」とイエスに問いかけていたことが報じられ、多くの教会関係者や信者を驚かせた。修道女テレサが生前、「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白し、「孤独で暗闇の中に生きている」と嘆いた。テレサには、「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」等の問い掛けがあったのだろう(「マザー・テレザの苦悩」2007年8月28日参考)。

21世紀の欧州キリスト信者はリスボン大震災や第2次大戦後のユダヤ人のように神に問いかけ、その不在を嘆いたとは余り聞かなくなった。21世紀のキリスト信者の神への信仰がより深まった結果というより、神の不在を嘆くことの空しさが先行し、神に問うことをしなくなったからではないか。

「神の不在」にはまだ余裕があった。神は必ず再び戻ってくる、という確信があったからだ。その神が去ったとすれば、その後の世界はどうなるのか。主人公が突然、舞台から姿を消したならば、その後の劇の運びはどうなるのか。米TV番組「スーパーナチュラル」で天使カスティエル(Castiel)が「天国にはもはや誰もいない」と嘆く場面がある。現代のキリスト者は「神の不在」ではなく、神が「行方不明」となったと感じているのではないか(「行方不明となった『神』を探せ」2018年6月17日参考)。

新型肺炎が世界的流行(パンデミック)となった今日、「私たちは運命共同体」という現実が理解できる。キリスト教会でいう「兄弟姉妹だ」というわけだ。その指摘する内容が正しいとすれば、その兄弟姉妹をまとめる「親」はどこにいるのか、という問いが自然に出てくる。

人が変わるのは想定外の出来事に遭遇した時だ。新型コロナの侵入は欧州キリスト教社会にとっても想定外の出来事だったはずだ。その意味で、新型肺炎の感染は欧州のキリスト者が変わることができるチャンスともなるだろう(「どのような出来事が人を変えるか」2016年3月13日参考)。

不可視の直径100nm(ナノメートル)の新型コロナウイルスは、われわれがこれまで気が付かずにきた大切なものがどこにあるのかを見えるようにしてくれるかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年3月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。