リスク回避主義

この20年、変わったと思うことの一つに「リスクをいかに回避するか」という人々の行動規範があります。あるところで小さい問題が起きたとします。その問題をSNSやメディアが取り上げ、社会問題化させます。するとその管轄の役所や企業は再犯防止に努めると発表し、行動を起こします。これがコンプライアンスにつながります。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

これが20年近くずっと続くとどうなるか、といえば「縮みの社会」を作り出すことになります。大きなリスクも小さなリスクも同じくらいの大きさのリスクとして捉える傾向が強まりますのでその対策はより過剰で規模が大きくなります。図表で表せば時代と共に加速度的な制約を強いることになります。

日本の多くの契約書は極めてシンプルでした。なぜかといえばたった一つの文章が全てを包括したからです。「本契約につき、疑義が生じた場合には双方が誠実に話し合う」という条文が最後の方にさらっと挿入されていました。「疑義を話し合いで解決できる」という性善説に基づく平和な時代の契約であります。

日本で一般的なビジネスの契約書は弁護士ではなく、法学部を出た法務部の社員(=弁護士資格を持っているとは限らない)が主管しており、そこで作ったりチェックしていたから難しい契約は作れないというそもそも話があります。それでも日本の契約書はずいぶん細かくなってきたのはゆるゆるの契約では機能しない時代になってきたからであります。

「東電と東芝が原発子会社設立へ」と朝日などごく一部のメディアが取り上げています。何かと思えば柏崎原発の管理においてより厳しい管理基準を満たすのに東電の支出は増え続け、管理会社は儲かり続けるという不公平感を変えるために利害が一致しない双方が管理会社を作って相反する利害関係を抑え込むという話であります。

原発の管理コストが異様に膨れているのはもちろん東日本大震災がきっかけですが、その後も政府の計画通り稼働しないのは「リスク認定」が住民レベルに落とし込まれ、100人100様のリスク管理基準を求められ、結果として最も厳しい水準にすり合わせなくてはいけなくなったからであります。

これはあらゆる業種で起きています。食の安全、物流の管理、小売りの情報開示、建築や開発事業のプロセス…であり、当然コスト増を引き起こしています。理由の一つに管轄の役所がリスクを極端に嫌うからです。企業には保険があるのですが、役所には保険がなく、その判断は最も保守的でなくてはいけないのです。

また、国民はより詳細な情報を持ち、様々なご意見番が立ち上がり、それを読んだ人は十分な背景も理解しなくとも「ここはこうだ」「あそこはこうなっている」とにわか評論家となってしまうのです。そういう私もそうかもしれません。

コンプライアンスが異様に進む北米に住んでいて思うのは「やり過ぎで居心地悪くなってきた」のです。医者に行き、処方箋を薬局でもらうとき、山のような薬ではなく山のような「注意書き」を頂きます。そんなにたくさんいろいろな書き物をくれてもどうせ読まないのですが、先方は「渡した」という事実で自分たちの法的な義務を完了したという流れなのです。行き過ぎると機能しないよい例でしょう。

つまりコンプライアンスが形骸化し、法律や社会規範そのものが実態と乖離し、「滑っている」ところが出てきていると考えています。街で自転車に乗るのもルールだらけで最近は自転車専用信号機も登場しています。もちろん守らざるを得ないのですが、良くなりつつある半面、昔のおおらかな時代が懐かしいなと思うこともあります。こんなに縛り上げらえると社会からドロップアウトする人も出てくるでしょう。全ての民にとって我々はあるべき姿をどう作るのか、無限のルール作りなのか、考えてもよいのではないかと思っています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年3月30日の記事より転載させていただきました。