「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(取材当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。第1回目は新型コロナ実名報道を考える:なぜどのように匿名志向が生まれたか、である。
今回は、実名報道に対する市民の見方と報道機関側との「ずれ」について同氏に聞いてみた。
なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。
実名報道のルールはどこで学ぶ?
―通信社の場合、実名報道については、どのようなルールがあるのでしょうか。なぜ実名で出すのかについて、何か教育はあるのでしょうか。と言いますのも、実名・匿名報道の議論を見ていますと、一般市民の間で実名報道への反対論があるのとは対照的に、報道組織にいる方はほとんど全員が実名報道の意義を主張しています。その違いは、「報道機関にいるかいないか」だけのようにも見えます。だとすると報道機関に入ることで、「何か」が起きるのか、を知りたく思いました。なぜ前者(報道の人)が空気のように当たり前のように思う実名報道が、なぜ後者(市民)では当たり前でなくなるのか、と。
一般的なルールとして、記事で伝えるできごとは具体的に書き、中に出てくる人の名前はきちんと記すということはあります。実名原則とも言いますが、これを「ルール」として何か教科書的に「学ぶ」教育はあまり重視されていないのではないかと思います。
新人記者は一定期間の研修を受けるものの、主な記者教育はオン・ザ・ジョブ・トレーニングです。つまり、実際に先輩記者やデスク(編集者)の指導の下で取材、執筆に取り組みながら、プロとしての取材の仕方、記事の書き方を身につけていくのですが、その際にむやみな匿名記事は編集者のチェックを通過しません。
そこで「なぜ実名が原則として必要か、実名があった方が良い記事になるのか」をきちんとジャーナリズムの役割に基づいて議論し、先輩やデスクが説明することになります。これは、事件事故の当事者、関係者の実名を克明に記録するという趣旨の場合もありますし、コメント発言者や情報源の実名という出典明示の趣旨の場合もあります。
米国のジャーナリズム教育研究機関ポインター研究所の執筆コーチ、ロイ・クラーク氏の書かれたものには人名どころか「犬の名前やビールの銘柄も書くこと」という教えも出てきますが、こうした実践の場で「きちんとした議論や説明」ができていることが大事だと私個人は思っています。
ハゲワシから少女を救うか、写真を撮るか
一方で、ジャーナリストの取材報道に関する姿勢と、世の中全体の受け止め方との間には、実名匿名問題に限らず差があるのが通例ではないかと思っています。
米首都ワシントンの新聞博物館「ニュージアム」(昨年閉館)に、有名な報道写真「ハゲワシと少女」*について、意見を問うコーナーがありました(*小林注:南アフリカの報道写真家ケビン・カーターが撮影した写真の1つ。飢饉状態となったスーダンで、餓死寸前となった少女をハゲワシが狙う瞬間を撮影し、1994年の米ピューリッツアー賞受賞)。「写真を撮らず少女を救う」「少女は救わず写真を撮る」の2択で、あえて「写真も撮るし少女も救う」という選択肢はおかずに選ばせるものです。
私がそれを見たのは2014年春でしたが、一般市民は「少女を救う」が7割、ジャーナリストは「写真を撮る」が7割と正反対でした。こうしたギャップはどんな職業でもあるのかも知れません。
また、ネット上、特にツイッター上では「ほとんどの人は実名報道反対」のように見えていますが、実際にはハフィントンポストの読者アンケートなどを見るとそこまではいえないように思われます。前回述べましたように、ネット上での匿名志向が日本では他国に比べて極めて顕著であることを考えに入れると、いわゆるネット上の意見の「見え方」にも一定の留意が必要であるように感じます。
―ご自身の経験で、遺族の方、あるいは取材をしにくい方からお話を聞くことが何度もあったかと思いますが、どのように乗り切ってこられたのでしょう?初めてそのような経験をする後輩の方には、どんなアドバイスを(もしアドバイスをされていたら)なさったのでしょう?
これはちょっと難しいし微妙な質問で、私から詳らかにお話しできることはあまりないのですが、一にも二にも誠実にお願いするほかありません。
よく「遺族や関係者から無理にコメントをとるマスコミ」というご批判があります。ひどい取材のしかた、あるいはメディアスクラムは深刻な問題で、反省し改善すべきだと思います。ただ実際のところ、良い記事を書きたい記者にとって「無理にコメントをとる」行為は非常に意味が乏しいものです。内容ある記事を書くためには、心が通じ合った上でお話ししていただくほかありません。亡くなった人の人物像記事などは、通常は、ご遺族や関係者の方と記者が信頼関係を築いて話し合った場合にこそ取材ができ、記事になると、同僚などの経験を聞く中で、思っています。
―報道の現場にいらして、実名・匿名報道に対する市民・読者側の視線が変わってきた、と思っていらっしゃいますか?
はい、そう思います。「匿名を求める」「匿名で発言する」ということが急激に一般化していると感じます。それに伴い事件や事故のニュースに限らず、文化や話題もののようなニュースでさえ、「実名報道」が何かしら特別であるように扱われてきている印象を受けます。
かつては日本でも、英米はじめ多くの国々に似て「報道といえば実名で行われるもの」ということが前提だったように思います。しかし、前回述べたように近年「匿名報道」という概念が生まれ、強化されてくる中「実名か匿名かを選ぶ」という発想が大きくなっています。そうなると、今度はもともと英米と異なり「出る杭は打たれる」「目立つのは苦痛」「普通の人は意見をあまり言わない」という空気がある日本です。「匿名」でありたいという願いが顕在化し、報道において特にそこの要請が強く出るのではないでしょうか。
社会全体の「匿名社会」化は急速に進んでいるように思います。特にインターネットの普及の中で、日本の特徴として「ネット匿名」の現象が大いに広まりました。日本での匿名掲示板の人気や、SNSでの匿名発信の多さは既にお話しした通りです。この国では、ネットを見る限り「普通の人が実名登場するのは異常」とでもいうような空気がどんどん強まっているのではないでしょうか。民主主義の社会を作るなら、普通の人こそ「公人」となってどんどん実名で意見を言い、表に出て行くことが意義深いはずですけれど…。
先ほど説明した「個人情報保護」の考え方から、個人情報の一つである「氏名」を知らせたりすることが憚られる空気もできました。これは個人情報保護法の定めがない場合でも「なんとなく個人情報に触れるのはやめておく」とでもいうようなケースも相当程度含まれましょう。
「個人情報保護」の本来の意味とは
本当は個人情報保護という考えの背景には「政府からの個人情報やプライバシーの保護」という考えがあったはずですが、日本では逆に「市民同士は自分の情報を語らず、政府だけが個人情報を知っている」という感じになってしまってないか、気になります。他の市民より政府が大変信用される社会ということなのでしょう。
困っている市民、大変な目に遭った市民を助けるのは誰か…そういうことは政府や専門家、エリートたちに任せるべきであり、普通の市民が情報を得て自発的に行動する、なんてことはあまり実感がない社会かもしれません。
電車の中で犯罪の被害に遭っている人がいるとき、自分は控え、鉄道会社員や警察の人に任せるということのなら、周囲の人は「見ないようにする」「知らないでおく」ことも配慮かも知れません。たとえて言えばそんな空気を社会の中に感じることがあります。日本ではフェロー・シティズン(同僚市民、仲間の市民)という言い方は余り聞かないですよね。(続く)
澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。
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筆者記事:
参考記事:
編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2020年4月4日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。