田原発言への違和感
「緊急事態宣言発令後に、安倍首相に会って僕が確かめたこと」ではジャーナリストの田原総一朗氏と安倍首相とのやり取りが紹介されている。まさに「渦中の人」へのインタビューであり実に読み応えがある記事である。
筆者は近年の田原氏の言説に違和感を持っていたためこの記事は多いに歓迎したいが、やはり筆者の偏見が強すぎるためだろうか世帯向け現金給付に関する田原氏の下記の発言には違和感がある。
市区町村の窓口は申込者が殺到し、非常に手間暇かかり、支給が、6~7月に遅れるのではと心配される。
僕は、「なぜ国が直接給付すると決めなかったのか」と、安倍首相に問うた。
田原氏は「国」と簡単に触れるがでは氏はどの省庁、どの国の機関が担当すべきと思ったのだろうか。まさか自衛隊ではあるまい。国の出先機関は良くも悪くも特定の人間を相手にしたものであり、相当数の住民を念頭に置いた世帯単位の施策には人員、人材、施設の面でも対応は困難である。だから市町村が対応するのである。
田原氏が地方自治に関心があるならば「なぜ国が直接給付すると決めなかったのか」という言葉は出てこないはずだし平時から「有事」を意識し、まさに「市区町村の窓口に申込者が殺到しない」よう自治体業務の効率化のためにマイナンバーカードの取得義務化、預金口座との紐づけを通じた行政による住民の預金口座の把握にも関心がいくはずである。
揚げ足取りをするつもりはないが筆者としては田原氏にもう少し地方自治、自治体業務に関心を持ってほしいと思った。
「対案なき批判」は議事妨害である。
筆者が田原氏のたった一言に反発したのはやはり自分の職域への無関心を感じ取ったからである。単なる無関心に反発したわけではない。新型コロナ対応では地方自治体の活動が不可欠であることは明らかにもかかわらず無関心だったことに反発したのである。
「休校」騒動はまさに地方自治体が関わる問題だったし現金給付だってリーマンショックに伴う景気対策のときに市町村が実施主体となり対応している。こんなことは調べればわかる。もっとも田原氏への文句を重ねても意味がない。
氏への反発をもっと生産的な方向に活かすとすれば、やはり重要なのは田原氏が「なぜ国が直接給付すると決めなかったのか」という「自分の考え」、いや「対案」を述べたことにより筆者が氏の地方自治への関心不足を推測できた事実である。
どんな分野でもそうだが「対案」とまさに自分の調査能力が試される。「対案」とは無知な者には提示できない。「対案」とは調査した者だけが示せるのである。
もう少し話を発展させたい。この事実は議論を破壊する批判者への対抗手段になる。
例えば「〇〇を批判するのが我々の仕事だ!」と主張しても、その批判が求められる水準に達しているとは限らない。批判の意欲と能力は別問題である。「意欲はあるが能力はない」というやつである。
残念なことにどんな分野でも「意欲はあるが能力はない」という人間はいる。そして案外、こういうタイプは声が大きく「強い」、全体を動かす力を持つ。
今は有事だから批判の「意欲はあるが能力はない」の人間の跋扈は阻止しなくてはならない。
そのためにも批判者の批判「能力」を判定する材料が必要になってくるが、その材料が「対案」である。繰り返しになるが「対案」とは無知な者には提示できない。「対案」とは調査した者だけが示せるのである。
仮に批判者が「批判するのが仕事だ!」とか「批判することに意義がある」と主張すれば「あなたはそもそも問題を理解していないのではないか?」と反論しても決して言い過ぎではない。
今は有事で生産的な議論が求められ「対案」の重要性は格段と増している。だから新型コロナ対応では「対案なき批判」は議事妨害と評価しても良いだろう。批判者が政治家、大学人、ジャーナリストならば「対案」を示すのは「義務」とすら言える。彼(女)らは「知性」が期待されている職業である。「対案」を示せないはずがない。
やはり大物ジャーナリストの一言は色々なものを考えさせてくれる。