神聖ローマ皇帝の歴史からドイツを理解する

※クリックするとAmazonページへ

ドイツという国を理解するためには、神聖ローマ帝国という時代が長くあったことを知る必要がある。それが、私の近著である、『日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解! 』(さくら舎)の主要なテーマの一つなのだが、ここでは、その骨格部分を紹介したいと思う。

エンペラー(皇帝)というのは、古代ローマのインペラトールに由来する。ローマ帝国の後半にあっては、広い領土を一人の皇帝が治めるのが困難になり、複数の皇帝が出現するようになり、やがて、95年には東西の二つの帝国に分裂した。

その後、東ローマ帝国はギリシャ正教のもと1453年まで継続したが、西ローマ帝国は476年に滅亡した。

しかし、810年にフランク国王だったシャルルマーニュ(カール大帝)がローマ教皇から戴冠され、その継承者がカトリック世界の王のなかの王というかたちでその地位に就くことになったが、空席のことも多くあった。

そののち、フランク王国は分裂したが、王たちのなかの有力者が代わる代わる就いていたが、特にイタリアの支配者が優先した。

そして、962年になると、ドイツ王だったオットー1世がイタリアに進出して、皇帝として戴冠された。これをもって普通は神聖ローマ帝国の成立と言い、ドイツとイタリアを支配する存在になった。ただし、神聖ローマ帝国という名称が、成立したのは、ずっとあとで12世紀のことだ。

オットー1世(Wikipedia)

ゲルマン族の習慣では王は選挙で選ばれることになっていた。そこで、まず、選挙人の資格をもつ選帝侯(普通は7人)がシャルルマーニュの宮廷がかつてあった西部ドイツのアーヘンに集まり選挙が行なった。ただし、ここで選ばれる王は、正式にはドイツ王でなくローマ王でドイツ王というのは俗称だ。

戴冠式は、はじめはローマで行われたが、のちには、アーヘンに移った。さらに、両方ともフランクフルトで行われるようになった。

ローマ王のなかで皇帝として戴冠されなかった人もいるが、普通はそれも神聖ローマ帝国の皇帝として扱われている。

しかし、選挙による選出は不安定なので、15世紀には事実上、ハプスブルク家の世襲になり、また、必ず皇帝として戴冠されるようになった。

マリア・テレジア(Wikipedia)

ところが18世紀のカール6世には娘しかいなかった。そこで、領地は娘のマリア・テレジアに譲ろうとしたが、伝統を破って遠縁の男系より自分の女系の子孫をというようなことを試みると大混乱が起きた(日本にとても大事な教訓だ)。

あっという間に、オーストリア継承戦争が起こり、バイエルン王が皇帝になった。ただし、そののち、取引が行われ、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ家のフランツ(領地交換でトスカナ大公)が皇帝になった。

ところが、ナポレオン戦争が始まると、ナポレオンはフランス皇帝を名乗り教皇から戴冠された。これをみて、フランツ2世は、まず、皇帝の地位の剥奪を怖れて、世襲のオーストリア皇帝を名乗り、ついで、神聖ローマ帝国皇帝の義務から離脱する、つまり、神聖ローマ帝国の消滅を宣言した。

これで、ドイツ全体を代表する君主というものは、なくなってしまった。しかし今度は、ローマの伝統とは切り離して、ドイツ国民主義が台頭し、1871年にはプロイセン王ウィルヘルム1世が、ベルサイユ宮殿でドイツ皇帝を宣言した。なぜベルサイユ宮殿かというと、ゲルマン族の遠征地で兵士達から王に推挙されるという伝統に従ったからである。

このことで、ヨーロッパには、フランス帝国はナポレオン3世で終わったが、ドイツ皇帝とオーストリア皇帝、そして、カトリック圏でないが、ロシアのツァーがいることになった。

それを口惜しく思ったのが、英国のビクトリア女王で、ディズレーリー首相は彼女のために、インド帝国皇帝という称号を考え出した。

しかし、第1次世界大戦によって、ドイツ、オーストリア、ロシアでは帝政が廃止され、第2次世界大戦後までインド皇帝だった英国王を別にすれば、皇帝がいなくなった。