3. 日本の進むべき針路
1)日本的民主主義の整理と発信
今回のコロナ禍で、メディアが散々に煽っていた「安倍一強」問題の化けの皮が剥がれた(要は、国際的にみれば、習近平・プーチン・トランプなどと比べて、安倍独裁などは可愛いもので、強制力をもったロックダウンすら容易にはできない)と上述したが、現状のコロナ禍程度のリスクであれば、私はこのことは誇るべきことだと感じている。日本は極めて民主的であると。
何もこれは、戦後のいわゆる「押しつけ憲法」とも言われる日本国憲法で、日本は三権分立はおろか、「国権の最高機関(41条)」たる立法府(国会)に行政府は頭が上がらなくなっているからだけではない。ここでは詳述はしないが、日本の歴史を振り返れば、天皇機関説や幕府との二元統治などの例を挙げるまでもなく、よほどの非常時を除き、天皇陛下は、極めて民主的に(周りの目を気にして)、国家の統治をおこなってきた。
我が国は一人に、また、一か所に権限が集中することを極端に嫌う国柄だと言えよう。私見では、特に本当の非常事態などに際し、こうした平和ボケ体制でいいのだろうか、と思わないでもないが、多くの場合、歯切れは悪くとも、三方良しで、共存共栄で、バランスをとりながら「あいまいながら」前に進んでいく日本は、良いのではないか。
何しろ、「場所的論理」を掲げ、絶対矛盾の自己同一という一見意味不明な難解な西田哲学を生み出した国である。いかなる時も果断を旨とする諸外国と違っていても良いではないか。個人的な体験ではあるが、かつて政府で援助行政を担当していた際、また、特許庁に勤務していた際など、制度とその背景にある彼我の哲学の違いに愕然としつつ、わが国の在り方に一抹の誇りを感じたのもまた事実だ(欧米は無償の援助が中心で、日本は低利の円借款が中心。また、後者は、欧米は事前の審査より事後の訴訟が大事で、日本は事前に綿密に審査。詳述はしないが、本質的には哲学の違い)。
色々違って、それでいいではないか。日本的民主主義のあり方の再確認・整理、そして発信が求められていると思う。
2)日本的経営・経済システムの整理
「和をもって貴しとなす」式の上記の日本的民主主義のあり様とも一部重なるが、わが国を彩る一つの特徴は、「長期」「サステイナブル」ということだ。日本の天皇家はギネスブックが認める現在まで続く最長の王朝であるし、現在も続く世界最古の企業である金剛組をはじめ、わが国は長寿企業が多い。もちろん、平均寿命の長さでも世界に冠たる社会である。
アフター・コロナの世界では、感染症リスクはおろか、震災や洪水といった自然災害、戦乱、その他の地球環境問題など、様々なリスクをより鋭敏に意識することになることは間違いないと思われるが、従業員を大切にし、有事に備えて現金を厚めに保有する日本的な経営は良い意味で見直されてくる可能性が高い。
半年前には、やれROEだROICだと指標を掲げ、内部留保を積み上げている日本企業の効率がいかに悪いか、ということを論難していた有識者が、コロナ禍の後、手のひらを返したように「キャッシュ・イズ・キング」(現金が死活的に大事)と語っているのを見ると、滑稽ですらある。勢いに乗って攻め立てるのは苦手でも、不況が長引いた場合の持久戦に強いのは、もちろん、日本的経営だ。
そして、冒頭に述べたとおり、メディアの極端な報道もあって、国民による政府への信頼は過度に低く感じるが、本来は、日本社会の基礎には相互の信頼があり、そのことが取引その他のコストを大幅に下げていて、経済的にも極めて効率の良い社会を作っているとも言われる。わかりやすく言えば、落とした財布が返って来ることを高確率で期待できる社会と、つねにスリに会うリスクを考えなければならない社会では、活動コストもサステナビリティも大きく違うのは当然である。
こうした日本的経営・経済システムの在り方や再確認、そして発信もまた重要なのではないだろうか。
3) 大胆なテクノロジー導入(例えば「遷都(首都機能移転)」を起爆剤に)
コロナ禍の影響で、テクノロジー導入が世界的に飛躍的に進み、世界を一変させつつあることは、上述のとおりだが、では、そうした世界的潮流の中で、日本では具体的にその実装をどのように進めれば良いのであろうか。1)マクロレベル、2)自治体等の地域レベル、3)産業レベルの三つの観点から略述したい。
まず、マクロレベルだが、別所(JBpress)で詳述したとおり、テクノロジー導入に向けた本格投資の大きな流れを作るため、遷都をするのが良いと考えている。現実的には、まずは、若手政治家のホープの一人である小泉大臣が率いる環境省を那須塩原のようなところに移すのが良いのではないか。新型の最先端のインテリジェント・ビルを象徴的に建てることは、単なる箱物向けの投資ではなく、いわゆるワイズ・スペンディング(賢い支出)にもなるし、地方創生(政府が進めるいわゆるスーパーシティ構想も含む)や働き方改革の文脈にもつながる。もちろん、感染症や震災といった事態に備えたリスク分散にもなる。
保守的国民性で、なかなか大胆な改革が進みにくいこともあり、コロナ後はこうした思い切った施策が必要となろう。
二番目の自治体等の地域レベルであるが、観光地におけるテレワーク拠点の設置や、先述の教育・医療などを皮切りとした住民向けの諸サービスにおけるテクノロジーの導入をどんどん進めることが重要であろう。特に国立公園・温泉地の活用などを中心とした前者は、小泉大臣率いる環境省が非常に熱心であり(3月末に、上記の「遷都論」の論考を読まれた小泉大臣から連絡があり、二人で意見交換をしてきたが、特にこの点熱心でいらした)、緊急経済対策にもV字回復局面の策として記載されている。
その他、現在、コロナ禍の広がり・長さが見通せない中で、次々に自治体レベルでのイベントが中止や延期に追い込まれているが、例えば、花火大会・夏祭りなどのイベントを極力、バーチャルに楽しめる施策を考えるべきである。5Gの世界はVRやAR(仮想・拡張現実)の導入が格段に進むとされているが、こうした部分も含め、決断力のある自治体とそうでない自治体の格差がますます開いていくことになるであろう。
最後に三番目の産業レベルである。正直、ここは、私もまだ綿密な調査や検討が進んでいるわけではないが、現時点での仮説を略述しておきたい。
まず、一般論として、米国西海岸やテキサスなどに集結する最先端のテックカンパニーや中国の深圳等のスタートアップベンチャー企業の猛烈な動きを見るに、一般論として、日本の産業界が、いわゆるICT系技術の導入で世界のトップに立つことは容易ではない。
もう少し丁寧に書くと、アフター・コロナの働き方・幸せの在り方との関係の深い効率化技術との関係では、例えば、量子コンピューター、人工知能、VRやAR、フィンテックなど、様々な分野が考えられるが、正直、その中での更なる詳細(ニッチな分野)は別として、大きく、これらで世界を日本の産業がリードできる感触は持っていない。日本の活路は、テクノロジー×X(エックス)のところ、即ち、掛け算の対象としての得意分野を戦略的に同定することではないかと感じる。
具体的には、素材や工作機械といった製造業の土台をなす分野、食・アニメ・建築などのいわゆるクリエイティブな分野などである。この点についても、かつて、JBpressに詳述したことがあるので、詳しくは参照していただきたい。
4月15日にオンライン形式で実施した「青山社中フォーラム」のゲストは、私の大学同期にて敬愛するAI(人工知能)の研究者である松尾豊東大教授であったが、対談セッション等で非常に印象に残ったのは、AIが発達すればするほど(社会に実装されればされるほど)、「複雑なものを複雑に」、すなわち、「複雑なままに、そのまま伝え、そのまま実装する」ケースが増えて行くということであった。有名なオッカムの剃刀というテーゼ(ある事象を説明する際に、仮定は少なければ少ないほどいい)も援用しつつ、こうした「合理主義・効率主義」的考え方が、AI全盛期には減退するのではないか、というのが松尾先生の主張である。
「あいまい」というのは、どちらかというと、ネガティブなイメージを含む日本語であると思うが、むしろ「あいまい」なことを誇りに、複雑なことを複雑に実現する社会を作って行くことが、今後の我々の使命かもしれない。
かつて、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の受賞スピーチは、「あいまいな日本の私」であった。大江氏の政治的主張には多々同意しかねる点があるが、敢えて氏のスピーチをもじって、今後あるべき方向性を表現すれば、「あいまいな日本を誇り、作る私」ということになるだろうか。
青山社中の年度は5月にスタートします。今年は、11月に10周年を迎える記念すべき年となります。そんな年度の第一号のメールマガジンのエッセイということで、ちょっと気合が入り過ぎてしまいました。最後まで読んでいただいた方には心から感謝します。