さて、憲法記念日をこのようなコロナ危機外出自粛の中迎えることとなるとは誰も思いもしなかったことでしょう。
緊急事態、有事、国難、こういう事態がそもそも実際に存在して、私達の生活に直接的に影響を及ぼすということを経験した方も、太平洋戦争経験者以外は存在しないという幸運を我々は享受してきたわけですが、実際に、「緊急事態」は存在するということを今身をもって体験しています。
そして、平時の発想で様々物事に当たると、大変な迷惑を被ることも身をもって体験しています。
「雇用調整助成金、悠長な審査やられては困ります。」
「アビガン、完璧に安全確認できてなくても死にたくないので早く使わせてくれませんか。」
「移動の自由というけれど、できれば来ないでください。」
「休業してくれないパチンコ店、危険なので閉めるように是非罰則を設けて下さい。」
などなど、実際に今、普通の方々から聞くお声です。
日本の社会の制度や法律は、ほぼ全ての人が善人であることと平時であることを前提にしてできています。それは方向としては美しいと思いますが、世の中にはそうではない方もいれば、有事もあります。国は、そのような事態を含めて、国民を守る備えをする義務があると考えます。(この備えがないことは日本の内なる脆弱性です。)
だから、世界の殆どの国の憲法で緊急事態条項が設けられているのです。別に、中国やロシアのような強権的な国だけにあるわけではありません。むしろ、民主主義国において(特に大陸法系の国)、なお緊急事態においては、個別の私権を制限してでも守らなけれがならないより大きな利益があるという現実を直視しているわけです。
それは、却ってそのような規定を置いておかない方が、緊急時において、国家権力による私権の制限について歯止めがかからない可能性を承知しているからこそであると思います。多くの国の憲法において、緊急事態において、行政権への権力の集中や必要に応じての私権制限を認めると同時に、事後の国会報告や検証など、一定の歯止めも設けられています。
外出自粛、休業要請、死の恐怖、というまさに、世界が「第三次世界大戦」とも称する未曾有の有事において、世界110か国以上の国の憲法に存在する緊急事態条項について考えることは、当然のことではないでしょうか。これを、「コロナに乗じて」とか「考えることがけしからない」という主張こそ、けしからないと思います。
そのような主張をする方々からは「憲法を一言でも弄ること自体が危険!」という姿勢が垣間見えますが、憲法は国家国民のためにあるものです。どれだけ日本の民主主義を信頼していないんだろう、と思います。どこの国でも、国民のため必要があれば憲法改正はやっています。日本ぐらいです。
いい加減、この「憲法改正=悪」とか「憲法改正=戦争」みたいな、荒唐無稽な、世界でどう説明しても通用しない幻想から脱却し、もっと「普通の」議論をしたらどうでしょうか。憲法をイデオロギー化するのはもういい加減やめるべきです。
私は緊急事態条項は憲法上あって当然と考えますが、そうでないという考えの方もいることでしょう。それ自体は様々考えがあってしかるべきと思います。私が違和感を感じるのは、憲法審査会も開かない、開いたと思ったら1人数分の発言しかできず、1回やって終わり、みたいな、「議論自体をする気がない」姿勢そのものです。議論すら拒否するなら、国会なんていらないのでは。議論すること自体を忌避し恐れる必要はないでしょう。国民のために国のために憲法はどうあることが良いかという普通の議論を普通にできて然るべき時間と経験を我々は積んできたのではないでしょうか。
真の危機に際してさえ突き詰めて考えもしないとなれば、本当の「思考停止」でしょう。 直近のコロナ対策が最重要の喫緊の課題であり憲法論議の時間的優先度が劣ることは当然とです。しかし、根本的な問題について考えることが妨げられることはおかしなことです。特に、憲法記念日ともなれば。
今回の危機における経験も踏まえ、本来、憲法にどのような緊急事態における備えを設けるべきか、コロナ対策の目途がたったらしっかりとじっくりと時間をかけて国会において議論を行うべきだ考えますし、そのように取り組んでいきたいと思います。
編集部より:このブログは参議院議員、松川るい氏(自由民主党、大阪選挙区)の公式ブログ 2020年5月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、「松川るいが行く!」をご覧ください。