コロナ禍で水を得た魚!「残念な自粛警察」はどんな思考の持ち主?

黒坂 岳央

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こんにちは!黒坂岳央(くろさかたけを)です。
※Twitterアカウントはこちら→@takeokurosaka

コロナ禍で「自粛警察」なる正義感を振りかざして、増々世の中を生きづらくする人たちが現れた。「自粛厨」などと呼ぶ人もおり、彼らの呼び方は様々だが、「自粛に応じないお店を通報」「他県狩り(他県ナンバーの車を破壊」など合法、非合法な方法で政府の自粛呼びかけの波に乗り、コロナの感染拡大防止のフリをして、自己満足に浸る迷惑な輩たちだ。

今回は世の中を生きにくくしてしまう、彼らの思考を考えてみたい。

自粛警察の犯す過ち

自粛警察は「自分は正しいことをしている。間違っていない」というつもりで、自粛を迫る迷惑行為に及んでいるが、上記ツイートで述べた通り、彼らは複数の過ちを犯している。

彼らは「自分の正義=世の中の正義」と思い込んでいる。お客さんが来なくなっている閑散とした様子や、席同士の距離を空けるなど感染拡大防止に務める店舗を見たら、まっとうな道徳や倫理観の持ち主なら胸を痛めるのが普通だ。

だが、彼らは水を得た魚のように役所に通報したり、店舗に脅迫まがいの電話を入れる。行き過ぎた加虐は残虐行為にしかならない。彼らの脅迫を苦に、店主の生命が絶たれるようなことがあったら彼らはどうするのだろう。店舗の自粛は政府と店主との間の話だ。彼らの出る幕ではない。

そして彼らは「正義を乱すヤツの人生などどうなってもいい」という極めて残虐な思考に陥っている。彼らの思考は非常に単純で、自分の中の「正義」の境界線を超えた瞬間に、相手が「人間」から「叩き放題のサンドバッグ」へと認識が変わる。人が人を裁くのは、そんな簡単な個人のさじ加減に委ねられてよいわけがない。

もしもそうであるなら、世の中に慎重に人を裁くシステムである、裁判所はいらないではないか。彼らのやっていることは迷惑行為と破壊行為だ。極めて堅牢に閉じられた自己満足から生まれた破壊的思考である。

さらに「世の中は完全なる正しさと過ちで成り立っている」という視野狭窄な思考に陥っている。物事は複数のレイヤーからなる多階層で成り立っており、あらゆる事象はグレーゾーンで「賛成派と反対派」が介在する。「こんなものはおかしい」とある人が思うものも、「これはいい」と思う人もかならずいるのだ。

すべからく全員が肯定、反対するものなどないのだ。にも関わらず、自主警察は自分の正義が100%正しく、それを破るものは100%間違い、と物事のレイヤーを個別評価する視点が欠けている。物事を冷静に、正しく、分析的に見る評価眼がない彼らが歪んだモノサシで測っているわけだ。

自主警察は「自身も過ちを犯す可能性を持った、不完全な人間の一人」という客観性を持つべきであろう。

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自粛警察がやりたいのは「正義ではなく鬱憤晴らし」

そもそも、コロナ禍に端を発する取り締まりは、個人ではなく国の仕事だ。誰も彼らに取り締まり権限の移譲(empowerment)をしていない。つまりは「自分が取り締まりをしたい」という極めて個人的な自主性に突き動かされて彼らは動く。その原動力となるのは「正義を通したい」のではなく「鬱憤晴らし」である。残念ながら、彼ら自身、それに気づく客観性を持っていない。

本当に正義をかざして世の中を良くしたいなら、相手に面と向かって自粛の必要性を訴えるならまだ分かる(肯定はしないが)。だが、彼らが自粛を迫る対象は、決まって立場の弱い店舗やよそ者に対してだ。自分たちは安全な位置から攻撃をしかけて、相手が苦しむ様子を見て楽しむ残虐性を持っている。

店舗内で席を空けたり換気を良くするなど3密回避を実現させ、なんとか顧客の安心感を獲得しようと奔走するお店のご苦労を見るとキリキリと胸が痛む。だが、そんな弱りきった相手に対して、迷惑電話や張り紙をする彼らは、人の心を忘れた「鬼」である。自分が気に入らない人を苦しめる行為が「正義」であるわけがない。

これは正義という大義名分を借りた鬱憤晴らし以外の何物でもないのだ。そう考えると、彼らが仕事でもないのに、相手を痛めつけることに時間を使う、彼らの強烈な原動力に合点がいく。

「世の中を生きにくくするのは、常に少数のノイジーマイノリティである」と常々思う。大多数の人は大人しく、苦痛に耐えて自宅で静かに過ごしている。だが、自主警察はこのタイミングで活動的になる。彼らを見ていると、「園児の声がうるさい!」と幼稚園にクレームを入れ、それによってくだらない規制が作られてしまい、世の中が増々生きづらくなってしまうことを想起する。世の中が増々生きづらくならないよう、「自主警察活動の自粛」を願わずにはいられない。