マリア・テレジア女系相続でハプスブルク家は終焉

八幡 和郎

日本人のための英仏独三国志 ― 世界史の「複雑怪奇なり」が氷解!』はヨーロッパのそれも中世から近世という日本人に余りなじみがない時代を扱っているので多くの人に受け入れていただけるか心配だったが、幸い売れ行きも順調だ。

その理由のひとつが、英雄と美女の物語的なエピソードをふんだんに取り入れたことだと思う。ある出版社の社長さんからは、こんな批評をしていただいている。

「一晩で読了。とにかく面白い。その理由は、盛り込まれている情報の多さと広さ。一般的なこの種の本は、政治の動きだけとか社会の動きだけとか、一面でしか歴史を見ていないが、本書には、歴史の専門家なら普通は無視してしまう逸話や文学・スポーツ・音楽・芸術・料理(食)等々、いわゆる「雑学」情報がふんだんに盛り込まれている。博覧強記といわれる八幡氏の面目躍如というところだろう」

歴史に多くの人が興味を持つ理由のひとつが、「事実は小説より奇なり」というような人生の教訓を得られることだろう。だとすれば、「人民の歴史」的なイデオロギッシュなものより英雄と美女の話の方が面白くて、場合によっては役に立つのは当然なのだ。

ここしばらく、この本の一部を使って英国史やフランス史に比べても日本人になじみの少ないドイツ史について説明してきたが、今日は、近代ハプスブルク家のお話だ。

フェリペ2世 (Wikipedia)

ハプスブルク家は皇帝カール5世のあと、子のフェリペ2世がスペイン王とブルゴーニュ公国の領地を引き継ぎ、弟のフェルディナントがハプスブルク家の領地であるオーストリアと神聖ローマ帝国皇帝位を継いだ。しかもフェルディナントは結婚でハンガリーやボヘミアも継承したので、神聖ローマ帝国の南東部分と、その東側で帝国の範囲に含まれないハンガリーなども領地にした。

スペインのハプイスブルク(アプスブルゴ)王朝は、巨大な植民地帝国を築いたが、オランダを独立で失い、スペインでもフェリペ2世の曾孫であるカルロス2世を最後に断絶してしまった。

スペインでは歴史的に女系相続も認められるので、バイエルン、ブルボン、オーストリア・ハプスブルクで跡目争いをしたが、結果的にはフランスのルイ14世の孫であるフェリペ5世がスペイン王となり、そのかわりに、ブルゴーニュ家の旧領でスペイン王が相続していたベルギー(フランドル)やイタリアの一部はオーストリアのハプスブルク家のカール6世が分与された。

しかし、カール6世には男子がなく、近親者にもいなかった。そこで娘のマリア・テレジアに跡を継がせようとしたのだが、これに親戚の諸侯は反対して分け前を要求し、プロイセンのフリードリヒ大王もシュレジェン(現ポーランド南部)を要求した。

そして、起きたのがオーストリア継承戦争であって、結果、オーストリアのハプスブルク家は多くの領土を失った。

マリア・テレジア(Wikipedia)

皇帝は女性では就けないのでったんバイエルン王家が占めたが、のちにマリア・テレジアの夫となったフランスのロレーヌ公フランソワ(ロートリンゲン公フランツ)がイタリアのトスカナ大公に転じて皇帝となって、ハプスブルク家は男系が絶え、ヨーロッパでは婿養子の制度がなかったので、ハプスブルク・ロートリンゲン家と改称した。

このことで、まずます、ドイツのなかでのハプスブルク家の威光は落ちて、東欧やイタリア色が強くなり、それが、ナポレオン戦争のもとでの神聖ローマ帝国廃止につながり、ドイツ統一の盟主はプロイセンのホーエンツォルレルン家の主導で進められることになった。

男系男子の相続が原則であるのを無理に女系相続させるとろくなことはないという教訓である。

ちなみに、マリアテレジアは皇帝位は継がなかったが、個別の領土の君主ではあった。肩書きは、ハンガリーとボヘミア女王にしてブルゴーニュとミラノとブラバンとリンブルフとルクセンブルクの女公爵にしてオーストリア女大公である。

そして、このマリア・テレジアとフランツ1世の孫であるフランツ2世は、ナポレオンが皇帝となったあと、皇帝位を否定されるのを避けるために、まず、オーストリア皇帝となり、いったん、オーストリアの世襲皇帝であり選挙で選ばれた神聖ローマ皇帝となり、さらに、神聖ローマ帝国皇帝としての義務から解放されると一方的に宣言した。

さらに、オーストリア帝国は1867年にハンガリー人の要求を容れて、「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦(Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone)」、通称「オーストリア・ハンガリー二重帝国」となり第1次世界大戦の敗戦のなかで解消されるまで継続した。