昨日、ネットニュースに「国のコロナ抗体検査に落とし穴 「科学的ではない」と医師が激怒」というタイトルの記事を見つけた。確かに、東京で0.6%、東北で0.4%の陽性率と大臣が公表したのは、ほぼ無価値な元のデータから判断すると、非科学的だった。
しかし、激怒するほどでもないのに…と思いつつ、アエラの記事を読んだ。すると、するとだ、「シカゴ大学名誉教授の中村祐輔医師が…厳しく批判した」とあった。読み続けると、どうも激怒した人物は私のことのようだ???????
いくら読者の目を惹くためとはいえ、「批判」と「激怒」は違うだろう。確かに、朝日出版関係の別雑誌の電話取材を受けたが、「激怒した」覚えはない。メディアのリテラシーは必要と批判してきたが、このようなタイトルをつけるのは、リテラシー以前の問題だ。SNSでの匿名での人格攻撃を批判している記事が多いが、このような見出しを付けるのは、私に対する人格攻撃に等しい。
昔は、たまには激怒することもあったが、朝日新聞事件や民主党政権時代を経て、喜怒哀楽の感情が失われてしまったような気がする。哀しみを感ずることはあるが、怒りの気持ちは薄れてしまった。そして、残念ながら、喜びや楽しさも感じなくなってしまった。
話をもとに戻すと、すぐに、見出しを変えてくれるように依頼した。もちろん、これまでの朝日の体質を考えると無理だとは思っていたが、意外なことに、すぐに「激怒」を「批判」に置き換えてくれた。担当した記者の方も誠実だったし、朝日も変わったものだ。
国のコロナ抗体検査に落とし穴 「科学的ではない」と医師も批判(AERA.dot)
日本では「批判」と「悪口」・「陰口」・「難癖」を同一視する傾向がある。「健全な批判」の欠如は、日本で「公平・公正な評価」ができない最大の理由だ。そして、結果として、このような状況では、いろいろな理由での火事場泥棒が横行する。「健全な批判」をした人間を、陰に回って「悪口・陰口」を言いふらして貶めたり、利権につながるギルドから締め出しているので、この国の審議会や専門家会議は、御用学者が跋扈するようになってしまっている。公平・公正な評価は、研究費などの審査にはきわめて重要だが、役人も研究者も一度握った利権は手放さないので、だんだんと修正が利かなくなるのが世の常だ。
付け加えると、専門家会議の議事録が残っていないわけがない(普通は国の重要な会議は電子機器で録音しているはずだ)ので、議論の内容が出されては不都合な人が隠しているのだろう。この体質が改善されない限り、日本ではまともな評価などできるはずがない。まともな評価ができないから、PCR検査もこのあり様だし、国に明るい未来はやってこない。これほどまでに、「責任」という言葉が軽いのは嘆かわしいことだ。
このコロナ感染症が、このまま収束すると考えていないなら、これまでのコロナ対策を振りかえって検証し、第2波や第3波に備えるのが常識だ。感染症の臨床的なデータを集めるのは今しかないし、それらの情報に基づいて重症化の兆候をとらえるのが極めて重要だ。
もちろん、ウイルスゲノムの差、人種間の(ゲノム)の差、軽症・中等症患者と重症・死亡者との違いをゲノム・免疫ゲノム学的観点から比較するなどの解析が必要だ。これが、ワクチンや薬剤の開発、薬剤に使い分けにつながるはずだ。と思いつつ、あまり腹が立たない。あまりにもいい加減な世界を見続けて、感度が鈍ってきたのだろう。
編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2020年5月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。