金融庁の質問は質問にならない

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金融庁は、金融機関との対話が重要だといっているが、様々な権限を有する監督官庁の立場で、金融機関との対等な対話がなりたつはずはない。

例えば、規制する側の金融庁から質問されれば、規制される側の悲しい性として、金融機関は質問の背景にあるはずの金融庁の意図を推測せざるを得ないわけである。

この心理の働きをソンタクといい、忖度と書くことは、死語の稀有な蘇生事案として、誰もが知っていることである。

このとき、興味深いことは、肯定の質問、即ち、なぜ何々するのかという形の質問は、否定的含意をもつと解釈され、否定の質問、即ち、なぜ何々しないのかという形の質問は、肯定的含意をもつと解釈されることである。

例をあげれば、なぜカードローンが急増しているのかと聞かれれば、どの金融機関もカードローンの抑制を指導されたものと理解するわけである。

いずれにしても、監督官庁として金融庁が質問する限り、それは決して質問にはなり得ず、何らかの指示や示唆、あるいは弱い命令になるのである。こうした言語の機能的側面に関連した分析は、現代哲学の重要な研究課題として、日常言語学派がとりあげていて、なかなか奥の深いことである。

故に、最近、金融庁は、金融機関との対話においては、心理的安全性を確保するとしているのだが、それが具体的に何を意味するのかは不明である。そもそも、心理的安全性は金融機関の側が感じることであって、それを金融庁の立場で確保することは不可能なのである。

もしも、金融庁として、どうしても心理的安全性を確保し、金融機関の隠された真実を知りたいのならば、何が隠されていようとも、行政処分等の強権発動を行わないこと、および公表しないことの確約をするほかない。

しかし、金融庁には、そこまでの覚悟はないはずだし、何らの対策も、対応もとり得ないことについて、知って何の意味があるのであろうか。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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