金与正の「怒り」の解消法とその後

政治家や指導者は約束や公約を忘れずに実行することが大切だ。その当然のことが珍しくなった世の中だから、公約を実行する政治家、指導者が現れれば一定の評価を惜しんではならないだろう。北朝鮮の金正恩労働党委員長の実妹、金与正党中央委員会第1副部長は3日前に談話で発表した内容を16日、実行した。

具体的には、2018年4月の南北首脳会談での「板門店宣言」に基づいて同年9月に設置した開城工場団地の南北共同連絡事務所の建物を爆破したのだ。それだけではない、これもまた与正氏が事前に警告していたように、南北軍事境界線周辺での軍事訓練演習を予告し、韓国を脅迫してきた。あれも、これも与正氏の談話が決して空言葉ではなかったことが実証されたわけだ。

▲板門店で会談するトランプ大統領、金正恩委員長、文在寅大統領(2019年6月30日、韓国大統領府公式サイトから)

開城の南北共同連絡事務所の爆発で「金与正氏の政治的立場は強化された」という論評が出てきた。建物を爆破し、軍事演習を予告して韓国を脅迫することで、金与正氏の政治的立場が強化された、というのは独裁国家だけに当てはまる論理だろう。

日本の安倍晋三首相が竹島に軍を派遣し、外国軍の拠点を破壊し、島周辺の海域を日本側の管理権に置いたとしても、「首相はよく公約を果たした」として国内で評価されることはないだろう。もちろん、海外からは軍事行動への批判が飛び出すことは必至だ。

安倍政権は一環として「竹島は日本固有の領土」と表明してきたが、それを軍事的に実行することはない。日本が国際社会の一員として世界の平和に貢献する民主的規律とルールを尊重する国だからだ。独裁国家・北朝鮮の金与正氏が有言実行者であることが実証されたとしても、称賛も評価もできない。国際社会の合意を破る行為であり、朝鮮半島の平和を脅かす行為といわざるを得ない。

金与正氏は隣国・韓国に対してどうやら怒っているようだ。直接の原因は、兄の金正恩氏を批判し、その腐敗政治を追及したビラを韓国側が飛ばしているからだ。それを防げなかった韓国政府への怒りだ。具体的には、南北融和政策を標榜してきた文在寅大統領の“言動不一致”への怒りが強い。

韓国保守派から「文大統領は共産主義者だ」と酷評されても、それを否定することなく、北側にエールを送ってきた韓国大統領に対して怒っているのだ。文大統領としては「あんなにお世話したのに、どうして……」という思いが湧いてくるだろう。

韓国大統領府Facebook

金与正氏が文大統領を含む韓国政権に怒っているということは、与正氏は文大統領に期待していたからだ。期待もせず、希望もなかったならば、かなりのエネルギーが必要な怒りという精神的感情は生まれてこない。すなわち、与正氏を含む北側指導者は韓国の文政権に大きな期待感を持っていたことになる。

しかし、たかだか北批判のビラで金与正氏の怒りが爆発したとはどう考えてもあり得ない。韓国から過去、何度も北批判のビラが飛んできたが、それが主因で北側が軍事攻撃に出たということはなかった。それが今回は例外ということなのだろうか。

実妹の与正氏が兄金正恩氏を冒涜することに怒りが抑えられなからだ、という受け取り方もある。人間は感情的な存在だから、何らの理由で傷つくと怒りが暴発するケースはある。金与正氏の今回の言動は感情に関連した反応だったとすれば、理解できても、感情に左右されるようでは、金与正氏の指導者としての資格が揺れることになる。日米韓は与正氏の怒りが鎮まるのを待って居ればいいだけだ。

金与正氏を含む北指導者は文政権が登場し、南北融和路線を言い出した時、韓国を利用して米朝関係を改善し、できれば制裁を解除させ、巨額の経済支援を獲得するチャンスの時との期待を膨らませてきた、文大統領と金正恩氏の南北首脳会談が実現した直後から、それは抑えようもなく膨らんでいっただろう。しかし、3回の米朝首会談でその期待が非現実的であったこと、文政権が米国の圧力に抵抗できない、ひ弱な政権であることが分かってきたのだ。

そのような閉塞感が北の指導部で支配的になってきた時、中国から新型コロナウイルスが拡大し、北側にも感染の危険が高まった。同時に、中朝の国境が閉鎖されることで、北側にとって生命線だった物質支援が途絶えてきた。

金正恩氏は国民に自力救済の発破をかけたものの、指導者も国民も新型コロナ感染の拡大を阻止するために動けなくなってしまった。そこに金正恩氏を誹謗するビラが南から飛んでくる。普段は優しく、冷静で賢明な与正氏の忍耐も限界になった。そこで怒りのガス抜きとして南北共同連絡事務所の爆発計画が練られ、即実行に移されたというわけかもしれない。

ところで、肝心の金正恩氏はどうしているのか。妹が前線で指揮をしている時、兄の金正恩氏は何もしていないということは考えられない。そのうえ、金与正氏の怒りは与正氏の怒りというより、兄の怒りを代行しているからだ。金与正氏が「怒り」のレベルなら、金正恩氏は「激怒」になっているだろう。

ただし、金正恩氏は怒りの戦線に参戦して戦うことは賢明ではないと判断しているはずだ。新型コロナの感染が過ぎ、文政権から経済支援の声がかかってくるかもしれない。その時、金正恩氏は「バカ呼ばわり」をしてきた文大統領と再会することに気が重くなる。そこで怒り役を妹に委ね、自身はポストコロナ後の南北、対米関係の交渉を夢見ながら過ごしているのではないか。

金正恩氏にとって唯一の懸念は、与正氏の「指導力ある指導者」という評価が定着していった場合だ。そして肝心の与正氏が周囲の称賛に浮かれ、自分の立場を逸脱して振舞いだした時だろう。なぜならば、与正氏には夫がいる、野心を秘める義父もいるからだ。

金正恩氏が定期的な診断を受けている時、手術を受けるために麻酔をかけられる時、不安になるのではないか、麻酔から目を覚ました時、金正恩氏はもはや独裁者の位置を失っているかもしれないからだ。

南北共同連絡事務所の爆破とその後の軍事的動向は、本来の主人公というべき金正恩氏と文在寅大統領という南北指導者が表に出てこない奇妙な状況下で進展してきている。あたかも、両指導者は同じ目標を秘めて、状況を見守っているかのように。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年6月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。