河井夫妻の事件について、私は法務大臣まで経験した政治家を、「従来の公選法の罰則適用の常識からすると異例と言える」(郷原 信郎)罪状で逮捕するのは、感心しない。黒川検事長の賭け麻雀でなくとも世の中には、法文上は罪に問えるかもしれないが、警察も検察もそれをしてこなかった事案は多い。それを、政治的な色彩が強い人物や事案において立件するのは司法の政治介入になりかねず、しっぺ返しにもつながりかねないと思うからだ。
しかし、なぜこういう極端な形で資金が撒かれることが起きたかだが、広島の地方政治を知らないひとにとっては、不可思議だろう。そこで、二年前に出版した「47都道府県政治地図 」(啓文社書房)の広島県の項の一部を紹介するとともに、解説をしたい。
戦後広島県の政治
全国の県議会議長で実力者といわれる政治家がいるが、広島県議会にも檜山俊宏議長という大実力者がいた。1991年から2003年まで議長をつとめ、とくに1993年には参議院議員になったばかりだった若い藤田雄山を知事に担ぎ出した。このときに対立候補だったのが、亀井静香代議士の兄で県議だった郁夫だったが、これを破って県政を牛耳った。これが直接の今回の事件につながる原因なのだが、とりあえず、終戦直後から回顧したい。
広島県政を語る上でしばしば深刻に語られるのは、教育現場における平和教育と同和問題だ。 そんななかで、1999年3月11日の参議院予算委員会での宮沢蔵相の答弁は、全国の人にとって驚天動地の異様さだった。県立世羅高校で民間から就任した校長が自殺する事件があった。君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する広島高教組の組合員教職員や部落解放同盟との連日の交渉に疲れ、文部科学省の通達と板挟みとなってのことだった。これが『国旗及び国歌に関する法律』成立のきっかけとなったことでも知られる事件である。
「実はこの問題はきのうきょうの話ではなく、四十年ほどの歴史がある。それも今、(岸元)校長の話にあったように、ほとんど(広島県)東部に限られた話だ。私がまさに選ばれてきた地域で、四十年間たくさんの人が闘ってきた。今回、命を落とされた方があったが、(これまでも)たくさんの人が職を失い、あるいは失望して公職を辞めるということがあった。」「(部落問題に関係があるために)これについて報道することが「差別発言」になるということを報道機関は常に恐れていて、このことを口にすることができない。共産党だけが実に勇敢に発言してきたが、それ以外はこれについて「差別発言」と批判されることを恐れ、世論の形成ができないということが一番の原因だったと思う」「自分がこの中にあって何十年も解決できなかった問題について国会がこうやって取り上げたことに勇気を感じる。また自分が今まで果たし得なかったことに渾身の努力を尽くしたい。といったことである」
というものだった。
同和問題は日本のまさに恥部であるし、その改善について功績があったのが部落解放同盟であり、日教組の貢献も大きかった。しかし、局地的にせよ行き過ぎることがあったし、そうした場合には、理不尽な標的になってもマスコミも警察も守ってくれない傾向があった。
日教組については、都道府県ごとの県教組のなかに過激なところもある。普通にはごく良心的な組織なのだが、やや極端に走る地域もあり、そのひとつが広島県だ。平和教育について熱心なのは被爆地として当然だが、広島の子は「君が代」は歌えないが、原爆の歌・三部作(「原爆許すまじ」「青い空は」「夾竹桃のうた」)はみな歌わされるいうのは行き過ぎだ。
そこに前川喜平氏とタッグを組んでいる寺脇研氏が教育長として出向して特異な教育を推し進めたというようなこともあって、公立高校に行ったら難関校は無理という状況になったというようなこともあった。
広島に原爆が落とされたときの知事は高野源進だったが、ちょうど福山に出張中で命拾いをした。その高野が警視総監として帰京したのち、児玉源太郎の七男の児玉九一、さらに、楠瀬常猪(1947年)と続いた。楠瀬は高知県生まれ。東京商大から農商務省入りし、商工省燃料局長官、中国地方行政事務局長官(州知事のようなもの)を経て官選知事となる。任期中に天皇陛下の行幸、広島平和都市建設法が立法された。
大原博夫(1951年)は、慈恵大学出身の医師で、県会議員から戦後は代議士になった。民主党と社会党に推された。「生産県」運動を展開し、経済の復興に成果を上げ、広島市の復興もめざましく、1951年には国体を開催、県庁舎、広島市民球場なども完成した。また、世界最大級の日本鋼管福山製鉄所の誘致成功が功績として残る。三期目に「大判小判事件」という不祥事で失脚。
永野嚴雄(1962年)は東京大学卒業後、検事・弁護士となり四十四歳の若さで1962年に知事になった。新産業都市からはもれた備後地区が議員立法によって工業整備特別地域となり、ほぼ同様の支援措置を獲得した。原爆ドームの保存決定、広島大学の統合移転決定、中国縦貫道の起工などが行われた。「島根県との合併を図る時期がきた」と提唱したが進展しなかった。
宮澤弘(1973年)は福山市に生まれ、東京大学卒業ののち、内務省に入り千葉県副知事となって東京湾大規模埋め立てなどを進めた。自治省事務次官を経て、広島県知事となった。のちに参議院議員となり、村山内閣の法相となった。「地方の時代」のイデオローグとして知られた。社会党との関係も良好だった。広島東洋カープが初優勝し、新幹線が開通し、広島大学を東広島市に移転させ、「賀茂学園都市」の建設を推進したが、東京と同じように郊外へ重要施設を移転するという施策が正しかったかは自明でない。「定住構想」に基づく地域づくり、住民参加、環境重視など新しい時代の考え方に沿った行政を展開していったが、地方自治のエースと期待されたほどの成果が上がったかは疑問だ。というより、生活や文化の環境さえ整備すれば仕事もついてきて地方に人口も戻るという思想そのものが高度経済成長時代のもので、高度成長が終わったからには、経済に優先的に取り組むことが必要なはずで逆転してしまっていたと思う。広島に限ったことではないが、この脳天気な思想を騙されて実践した結果、地方では各種のハコモノ施設ばかりたくさんできたが、仕事がなくて住む人がいなくなっていったのである。
宮沢が任期途中で辞任して参議院選挙に出馬したので、副知事だった竹下虎之助(1976年)が出馬した。京都大学を卒業し、高等文官試験にも合格したが、島根県庁に就職した。だが、自治省に移り、永野県政の末期から副知事になっていた。アジア大会が誘致され開催され、広島新空港建設にめどがついた。
このころ広島県議会では、檜山俊宏議長が県議会と自民党県連のドンとして君臨していた。それに対抗したのが、亀井静香代議士とその兄で県議だった郁夫(のちに参議院議員)だった。この対立から、檜山が参議院議員の藤田雄山(1993年)を擁立し、亀井郁夫が対抗馬となったが藤田が勝った。藤田の父は参議院議長だった藤田正明。母方の祖父は元知事の大原博夫。フジタ・グループの創業者である藤田一郎は叔父。慶應大学を卒業し三井物産勤務のあと二世国会議員となった。
藤田は四選され、檜山を県会議長から逐うことにも成功したが、巨額の資金の流れが明らかになり県議会から知事の辞職勧告を受けたりもした。教育部門では、公立高校は難関大学への進学に配慮した体制を取るのが遅れた。
湯﨑 英彦(2009年)は、広島市佐伯区出身で東京大学から通産省。民間に転じ、(株)アッカ・ネットワークスを設立しJASDAQに上場させた。県議会の自民党最大会派や民主党会派の支援を受けて当選。都道府県知事として初めて「育児休暇」を取った。県の管理職には年俸制を適用した。このときに、対抗馬として自民党の一部が担いだのが河井案里であり、今回の参議院選挙でも檜山俊宏は河井を推して事務所が捜査されている。
今回の事件でもっとも傷ついたのは岸田氏だ
そもそも広島選挙区は自民党候補の得票が野党の二倍以上あるのに、湯崎知事と連合と岸田派の三者連合での政治的平和を維持したくて一人のみの擁立にこだわった岸田派の言い分は党として容認できるものでなかったのはしごく当然だった。
いまだもって「二人擁立が無茶だった」と岸田派の県議らがいっているのは全国に通る理屈では全くない。そして、保守系でも河井当選を阻止するために国民民主の候補に票を回すべく動いていた人たちもいた。
もし、岸田氏が溝手10に対して河井8か9くらいになるように動いて二人当選か、河井惜しくも次点くらいにしておけば、岸田氏も総裁候補としてもっとも好ましい結果になったし、さらに、自派の地元勢力が検察をけしかけるようなことをしないほうが、総裁候補としては得だったはずだ。
参議院選挙の勝敗は政権の行方に大きく関わる。第1次安倍内閣も参院議員選挙の敗北で退陣したわけである。全国の二人区で二議席取れる票があるにもかかわらず一人しか取れないことこそが政権の浮沈にかかわるわけで溝手を落として国民民主を上げるために大量の資金投入をする動機が安倍サイドにあることはあり得ない。
一方、河井が当選することは、広島県政のなかでは岸田派にとって困ったことだった。そこで、総裁候補としての岸田氏にとっては溝手・河井が両方当選した方が得、地元県連には溝手と国民民主が当選のほうがいいということが基本的な図式だった。
地元の岸田派では徹底的に河井に票が流れるのを防いだが、それが党本部があせって大量の資金援助をした伏線でもある。そして、世論調査通りに河井が大敗すると総裁候補として×点がつきかねない岸田が最終局面で安倍総理と一緒に河井の選挙カーにも乗ったら、それが効き過ぎて溝手が落ちてしまったということなのである。
いずれにしても、二人擁立でうまくさばいてこそ、岸田氏は総裁候補として存在感を示せたのに、自派の溝手を落としてしまい、また、河井夫婦逮捕で安倍・二階・菅にダメージを与えたのだから、大失態である。
かつて副総理だった三木首相の地元の徳島で三木派現職がいるところに、田中派の後藤田正晴が実質上、社会党と組む形で殴り込みをかけ(後藤田正晴の姉の子である井上普方が社会党代議士だった)、阿波戦争が勃発したことがある。その場合は、現職を引きずり下ろしてというところに無理があったが、今回は二人当選できる状況のなかで、野党と岸田派が組む形になったのは余り賢いパターンでなく、総理を禅譲でねらっている岸田氏は泥仕合にならないように仕切ることが望まれた。
こういうややこしい問題を扱えないと、外交でも内政でも大丈夫かと言うことになる。岸田氏には、この広島政界における傷を双方が納得いくように癒やすことに汗をかくことが、総理総裁を狙うためのひとつの試金石になると思う。