6月15日、防衛省は公式サイト上で「イージス・アショアの配備について」以下の「事実関係」を公表した。
「(前略)本年5月下旬、SМ-3の飛翔経路をコントロールし、演習場内又は海上に確実に落下させるためには、ソフトウェアのみならず、ハードウェアを含め、システム全体の大幅な改修が必要となり、相当のコストと期間を要することが判明した」
その上で「防衛省としては、この追加のコスト及び期間に鑑み、イージス・アショアの配備に関するプロセスを停止する」と「今後の対応」を明かした。
マスコミは「白紙撤回」(NHK)などと報じたが、公式には「配備に関するプロセス」の「停止」であり「中止」ですらない。6月18日の総理会見でも、英軍事週刊誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」の東京特派員が「イージス・アショアは中止でいいんですか?それとも、停止? 英語で書く際に…」と質し、安倍晋三総理が「それはプロセスの停止」と即答。念押しを迫る記者に重ねて二度「停止」と答えている。
ゆえに、政府の発表を額面通りに受け止めるなら、新たな配備先を探すという選択肢も残る。実際、空自の佐渡分屯基地など離島の名前が複数上がっている。
だが、現実には難しい。なぜなら、防衛省は
「我が国全域を防護する観点から、北と西にバランス良く2基を配置するためには、どのような場所にイージス・アショアを配置するのが適当か数理的な分析を実施。結果、多くの地域を防護するためには日本海側に設置する必要があることを確認。更に分析を重ね、山口県付近と秋田県付近にイージス・アショアを配置した場合、2基で最もバランス良く我が国全域を防護することが見込まれた」
と説明してきたからである。
(しかも説明資料に「例えば、北側については新潟県付近、秋田県付近、北海道西南部付近に設置した場合と、西側については九州北部付近、山口県付近、島根県東部付近に設置した場合について、それぞれ組み合わせて防護範囲を調べると、最も広く効果的に防護できるのは、秋田県付近と山口県付近であった」との注記まで添えていた。)
それを、今さらゼロベースで再検討するというなら、それこそ「白紙撤回」したことになってしまう。
背広組の“ド素人”が仕切って自爆
もし空自の分屯基地に配備してよいなら、今後イージス・アショアを陸上自衛隊が担当する必要性に乏しい。これまで弾道ミサイル防衛は、空自のPAC-3ミサイルと、海自のイージス艦が担ってきた。そこに陸自が割り込んだ。高額な防衛費が発生する弾道ミサイル防衛網を陸海空で整備する…、陸海空の縄張りや縦割りに配慮した結果だが、そこに軍事的合理性はなかった。
だが、防衛省は配備先を陸自演習場に絞り、強引にプロセスを押し進めた。新参者の陸自に加え、いわゆる背広組が仕切った影響も大きい。あっさり言えば、ド素人が仕切った結果、自爆した。
新たな配備先として、洋上フロート案も浮上しているが、そこを陸海空の誰が、どう守るのか。空や海上、海中からの攻撃にさらされたら、ひとたまりもない。それ以前の問題として、津波を避けることすらできまい。高額かつ重要な装備品の配備先としては脆弱に過ぎよう。それでもなお、洋上に浮かべるというなら、それを、もはやイージス・アショア(陸上配備型)とは呼べない。それでも陸自に担当させるのだろうか。
イージス・アショアに代えて、新たにTHAAD(Terminal High Altitude Area Defense:終末段階高高度地域防衛)を配備する案も再浮上したが、THAADは防護範囲がイージス・アショアより狭く、調達費用もかさむ。一言で評するなら、コスパが悪い。
案の定、イージス艦を増強する案まで飛び出してきた。令和元年版「防衛白書」を借りよう。
北朝鮮は、移動式発射台(TEL)による実践的な発射能力を向上させ、また、潜水艦発射型(SLBM)を開発するなど、発射兆候を早期に把握することが困難になってきている。
このような状況の変化なども踏まえれば、今後は、24時間・365日の常時継続的な態勢を、1年以上の長期にわたって維持することが必要であり、これまでのわが国の弾道ミサイル防衛のあり方そのものを見直す必要がある。/また、現状のイージス艦の体制において、長期間の洋上勤務が繰り返される乗組員の勤務環境は、いつ発射されるかわからない弾道ミサイルへの対処のため、日夜、高い集中力が求められるなど、極めて厳しいものとなっている。(中略)イージス・アショア2基の導入により、わが国全域を24時間・365日、長期にわたり切れ目なく防護することが可能となり、隊員の負担も大きく軽減される。(中略)イージス艦を海洋の安全確保任務に充てることや、そのための練度を維持するための訓練、乗組員の交代を十分に行うことが可能となり、わが国の対処力・抑止力を一層強化することにつながることになる。
かくしてイージス・アショア導入と相成ったわけである。THAAD導入案やイージス艦増強案などと比較検討した結果、2017年にイージス・アショアの導入が閣議決定され、その後、配備先に秋田と山口の陸自演習場が選定された。
それを今さら「停止」するなら、マスコミが報じたとおり「白紙撤回」に等しい。代替案もなしに白紙化するなど、正気の沙汰ではない。なのに、それを政府与党から野党、関係自治体までが歓迎している。出来の悪い三文小説を読んでいるかのようだ。
ブースター落下のリスクはわかっていたこと
現時点で最有力な代替案はイージス艦の増強だが、もしそうするなら、白書も指摘した「隊員の負担」などの問題はどう解決するのか。この夏に刊行される令和2年版「防衛白書」で、どう釈明するつもりなのか。
最大の問題は「停止」の理由である。すなわち「演習場内又は海上に確実に落下させるためには(中略)相当のコストと期間を要することが判明した」からである。ブースター(推進補助装置)が演習場外に落下するリスクを避けがたいとの判断であろう。
なるほど、そのリスクは残る。だが、それは配備先を陸自演習場に選定した時点でわかっていたことだ(とくに山口は海から遠い)。軍事知識に乏しい安倍政権下の歴代防衛3役(大臣、副大臣、政務官)や事務次官以下の背広組に加え、黙って見過ごしてきた統合幕僚長以下の制服組を含む、幹部全員の責任である。本当になさけない。
(なお6月25日発売の「週刊文春」が《安倍「亡国のイージス<アショア>」当初から「迎撃不能」防衛省「秘密文書」<入手>》と題した記事を掲載するが、批判の対象を間違えている。)
廉恥を忘れた連中に正道を説いても空しいが、「停止」を撤回し、配備のプロセスを進めることが最も理にかなっている。
「イージス・アショアが迎撃ミサイルを発射するのは、弾道ミサイルが我が国領域に落下する可能性があると判断された場合」である。その場合、Jアラートを通じ、広く国民に避難を呼びかけることになる。「ミサイル着弾時の爆風や破片などによる被害を避けるためにも、建物の中や地下への避難を国民の皆様に呼びかける」方針である(ともに防衛省)。
こうした取り組みが功を奏すれば、民家に落下し、民間人に被害が及ぶ可能性は極小化される。もちろんリスクはゼロではない。だが、それすらダメだというなら、市ヶ谷(防衛省)へPAC-3を展開配備させることも「停止」すべきであろう。かりに迎撃すれば、ミサイルの破片が人口密集地(首都圏)に落下してくるリスクが残る。
そもそも、イージス・アショアが迎撃するのは、たとえば北朝鮮が発射した核ミサイルである。もし、ブースターや破片の落下を恐れて迎撃を躊躇えば、数十万以上の死者が発生するかもしれない。どちらのリスクを選ぶべきか。日本の政治家や官僚は、それすら判断できない。
疑問が残る敵基地攻撃能力の議論
いわゆる敵基地攻撃能力の保有も再検討され始めた。安倍総理も前出会見でテレビ朝日の記者に問われ、
「抑止力とは何か。相手に例えば日本にミサイルを撃ち込もう、しかしそれはやめた方がいいと考えさせる、これが抑止力ですよね。それは果たして何が抑止力なのだということも含めて、その基本について国家安全保障会議において議論をしたいと思います。(中略)ミサイル防衛につきましても、ミサイル防衛を導入したときと、例えば北朝鮮のミサイル技術の向上もあります。その中において、あるべき抑止力の在り方について、これは正に新しい議論をしていきたい」
と含みをもたせた。
さらに読売新聞の記者から「自民党内などでは敵基地攻撃能力の保有を求める声も出ておりますが、この点は、総理、どのようにお考えでしょうか」と問われ、こう踏み込んだ。
当然この議論をしてまいりますが、現行憲法の範囲内で、そして、専守防衛という考え方の下、議論を行っていくわけでありますが、例えば相手の能力がどんどん上がっていく中において、今までの議論の中に閉じ籠もっていていいのかという考え方の下に、自民党の国防部会等から提案が出されています。我々も、そういうものも受け止めていかなければいけないと考えているのです。/先ほど申し上げました、抑止力とは何かということを、私たちは、しっかりと突き詰めて、時間はありませんが、考えていかなければいけないと思っています。そういう意味において、政府においても新たな議論をしていきたいと思っています。
一般論として敵基地攻撃能力の保有を議論するのはよいが、今回の「停止」を受けた代替案としてなら、疑問が残る。前掲白書のとおり、イージス・アショアは北朝鮮の「発射兆候を早期に把握することが困難になってきている」として導入された。そもそも「発射兆候を早期に把握することが困難」なのに、どうやって未然に発射を阻止するというのか。
禍根を残すイージス・アショア「停止」
いや、第二撃は阻止できると強弁するなら、それは懲罰的抑止力であって、これまでの拒否的抑止力ではない。どちらも同じ抑止力と言い張るなら、そこに学術的な真理や公正さはない。それを「現行憲法の範囲内で、そして、専守防衛という考え方の下」と言い張るなら、法的な妥当性や安定性にも欠ける。われわれ主権者に対して誠実でない。
私も「今までの議論の中に閉じ籠もっていていい」とは思わない。懲罰的抑止力の保有を含め、ゼロベースで議論するなら話は別だ。なら、はっきり「従来の憲法解釈は間違い」と認めるべきである。そうでない限り、イージス・アショア「停止」の禍根は深く残る。
従来の延長線上に、あるべき答えはない。安倍政権は一からではなく、ゼロから出直すしかない。