黒坂岳央(くろさか たけを)です。■Twitterアカウントはこちら→@takeokurosaka
世の中には「先生」と呼ばれる職業がある。弁護士、会計士などの「士業」や、学校の教師などだ。自分も作家、講演家、英語多読の講師をしているので油断すると「先生」と呼ばれてしまう。
「先生」という呼び方はあちこちに溢れている。自分も子供を預けている相手を「先生」と呼んでいる。相手を先生と呼ぶ人たちにはなんとも思わない。けど、世の中には「自称先生」と「自分のことは、先生と呼びなさい!」という、先生になりたい気持ちを隠しきれない、奇矯な人たちが存在する。別に人の価値観だから咎めるつもりは1ミリもないんだけど、「割と上から目線で世の中見てるよな?」という彼らの共通点が見えてきたので記事にしてみたい。
自分は商業出版していたり、講演したり、英語を教えているので油断すると「先生」と呼ばれてしまうけど、相手にムリに呼ばせるつもりはない。
自分は英語を教える人だけど、同時に他人から別分野を教わる生徒でもあるからな。天は人の上に人を造らず、よ。
人間界に上も下もあるもんか。
— 黒坂 岳央@英語多読講師・経営者・作家・講演家 (@takeokurosaka) July 5, 2020
「先生」とはなにか?
そもそも、先生とはなんだろうか?端的に言えば、「人を教育する立場」をそう呼んでいるのだと思う。学校の先生は生徒を指導するし、士業の人はコンサルティングやアドバイザリーサービスを提供する。ああ、確かに人を指導しているよな。講演も出版も本やセミナーを通じて、人を教育しているという点においては、先生という呼称に違和感はない。「先生=人を教育する人」というのは間違いないだろう。
けど、世の中には「先生=エラい人」という昭和時代のカビ臭さを感じる感覚を持った人が存在する。「教育者=先生」はおかしくないのだが、「エラい人=先生」という感覚はもう令和という時代にアップデートして上書き保存されるべきだと思っている。
世の中みんなが先生で生徒
「私のことは先生と呼んでください」とか「◯◯の先生をしていますw」と自己紹介をする人たちに欠けている視点がある。それは「世の中全員が先生であり、生徒である」という当たり前すぎる真実だ。
自分はある時は英語多読を教える講師であり、またある時はフルーツビジネスのコメンテーターとしてテレビに出演する(テレビ出演についてはこちらの記事で取り上げてるよ)。けど、同時にある時は保育士から子育てのアドバイスを貰う生徒だし、料理を教わる生徒だ。
みんなそれぞれ仕事を持っていて内容に違いはあれど、人と関わる仕事をしている人は顧客にアドバイスをしている先生だ。そして同時に、他の誰かからアドバイスを貰う生徒でもある。
天は人の上に人を造らず、福沢諭吉さんの言う通り、世の中全員が上下のないフラットな関係のはず。それは親子の関係や社長と従業員の立場でも同じだ。相手とは職務や権限の有無や大きさが違うだけで、同じ血の通った人間でしかない。みんなが時には先生になり、生徒になる世界にオレたちは生きている。それなのに「オレを先生と呼べ」という態度は、自分は誰からも教えを請うことがない完璧超人と思っているのかと感じる。
「先生」にこだわる人は世の中を上から目線で見ている
自分が先生と呼ばれることにこだわる人種は、個人的に世の中を上から目線で見ていると思っている。筆者はそうした人と付き合ってきたが、他人を見下す姿勢が彼らの言動の数々に散りばめられている。そう感じたことは一度や二度ではない。
思うに自分が「先生」と呼ばれることにこだわるのは、相手より上に立ちたい、いや本質的には上に立っているはずだ、という痛い勘違い臭、老害臭が漂う。
個人的には相手に先生と呼ばせるようになったら、老化の入り口だと思っている。相手から学びを得る可能性を放棄し、自分が支配者の立場になりたいという姿勢に刹那的な心地よさはあっても、成長はない。オレは英語を教えているが、相手からも多くを学ばせてもらっている。学習者の悩みや、不安な心理はお金を払ってでも学ぶ価値があると思っている。そう、オレも英語を教えているが、相手からも教わる生徒でもあるのだ。だから「先生扱いされたい」なんて気持ちが1ミリもない。むしろ「こちらはあなたからも、勝手に学ばせていただきますw」という生徒でありたいと思う。