聖ソフィア寺院のモスク化は世界史的大事件か

八幡 和郎

イスタンブールにある世界遺産・アヤソフィア寺院をモスク(イスラム礼拝所)にするというエルドアン大統領の声明が欧米では驚くほどの衝撃となっている。

トルコ大統領府公式サイトより

塩野七生さんの小説「コンスタンティノープルの陥落」には、オスマン帝国による1453年の東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープル(イスタンブール)攻略が西欧社会に与えた衝撃の大きさが印象的に描かれているが、今回もびっくりするほどの大きな扱いが驚きだ。

エルドアン大統領の発表に先立って、トルコの行政訴訟の最高裁判所に当たる国家評議会はアヤソフィアの博物館としての地位を取り消して、モスクに戻す道を開いており、今回の決定はそれを受けたものだ。国家評議会は全会一致で1934年の閣議決定を無効と判断し、アヤソフィアが不動産権利証にモスクとして登録されているとした。

キリスト教をミラノ勅令で公認したコンスタンティヌス大帝は、、330年にギリシアの植民都市ビザンティオンに首都を移した。そして、360年に中心的な教会としてアヤソフィアを完成させている。

ただし、この建物は焼失し、ユスティニアヌス帝によって537年に再建されたもので、それまでのバジリカ方式(長方形で三角屋根の古代ローマ式建築)でなく、巨大なドームをもつものだった(当時は41.5 m、現在は修理の結果55.6 m)。

ユスティニアヌス帝はこれを見て、古代イスラエル王国のソロモン神殿を凌ぐとして、 「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだという。

アヤソフィア(orientalizing/flickr)

私は昨年の6月に訪れたが、イスタンブールの旧市街には、三角形の半島の東の先端にトプカピ宮があり、そこから西に向かってアヤソフィア、ブルーモスク、シュレイマンモスクという3つの巨大建築が並んでいた。

緑色の列柱が印象的だが、これは、エフェソスにあって世界七不思議のひとつだったアルテミス宮殿を壊して柱をもってきたものということだった。

アヤソフィア内部(orientalizing/flickr)

その後、東ローマ帝国の首都として栄えたが、1204年に第四次十字軍の侵略を受けて、大規模な略奪を受けて、聖遺物などのほとんどは持ち去られた。しかし、 1261年には東ローマ帝国が復活し、1453年まで続いたのである。

オスマン帝国の首都となってからは、アヤソフィアはモスクになり、モザイクの上には漆喰が塗られたが、第1次世界大戦後にオスマン帝国が滅亡し、世俗国家としてのトルコ共和国が成立すると、無宗教の博物館とされた。

しかし、エルドアンは世俗国家からイスラム国家への転換、さらには、オスマン帝国の復活までを視野に入れており、アヤソフィアのモスク化は象徴的なイスラム革命への大きな一歩と言える。

だからこそ、ギリシャは「文明世界に対するあからさまな挑発」と反発し、ロシア正教会のウラジミール・ルゴイダ報道官も「数百万人に上るキリスト教徒の懸念の声は届かなった」と嘆いた。

アメリカのポンペオ国務長官も「アヤソフィア博物館をモスクに戻さないよう要請し、かつてはキリスト教の大聖堂だったこの歴史的建造物をすべての人に開かれたままにすべき」と苦言を呈し、ユネスコのオードレ・アズレ事務局長も、ユネスコとの事前協議なしに今回の決定が下されたことに「深い遺憾」の意を表明した。

私が思うに、イスラム国という先行者は滅びたが、エルドアン、エジプト大統領のシシ、それにサウジの皇太子が、オスマン帝国の復活とイスラムの盟主の地位を夢見て争っているようにみえる。今回の決定はその「レース」のなかでの大きな一歩でもある。

(参考『365日でわかる世界史 ― 世界200カ国の歴史を「読む事典」』(清談社)より)

トルコ最大の都市であるイスタンブールは、ギリシャ人が建設したビザンティオンに淵源を持ち、コンスタンチヌス大帝がローマ帝国の首都としてコンスタンチノープルと呼ばれた。ヨーロッパとアジアを分かつボスポラス海峡に面し、角のように突き出た三角形の岬になっている要害の地で、金角湾は天然の良港で、鉄の鎖で入り口を封鎖して不審船の侵入を防げる要害の地だった。

ローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌスは、旧い神々の信仰が残るローマを嫌い、ギリシャ人の都市ビザンティウムに首都を移した。ローマから膨大な芸術品が運ばれ、第二のローマはキリスト教の都にふさわしい聖なる都市になった。

アジアとヨーロッパの境界にあり、ギリシャ語圏であるこの地への遷都とキリスト教の公認は、ヘレニズムとローマの文明を継承する帝国を確立した。

ギリシャ人は独立にあたっても、めざしたのは東ローマ帝国の再建であり、その首都はコンスタンティノープルでなくてはならないと考えていたのである。だが、現実は厳しく、1830年に独立したときはほとんどペロポネソス半島だけに領土は限定されてしまった。このあとも、ギリシャは、メガリ・イデアという運動のもと東ローマ帝国の領土をできるだけ取り戻そうとした。

第一次世界大戦のあとには、イズミルなど小アジアを占領したが撤退に追い込まれ、テッサロニキなどマケドニアの一部、ロードス島、クレタ島などを得ただけであった。

そこで心ならずも、オスマン帝国の田舎町でしかなかったアテネを首都にすることで我慢するしかなかった。だが、ギリシャ人は領土拡張をあきらめない。