昨年11月『致知出版社の「人間力メルマガ」』に、「優れた人材を得るための4つの条件(橋本左内)」が載っていました。『啓発録』で有名な幕末の先覚・左内ですが、曰く「第一に、人材をよく知る」「第二に、人材を養う」「第三に、人材を完成させる」「第四に、人材を活用する」ということでした。人物を得るべく、賢材を見出し育てて行き完成・活用に繋げて行くとは、全て左内が言っている通りだと私も思います。
但し完成を目指すことは大事ではありますが、他方どこまで行っても完成の域には達せないと思っています。例えば『論語』の「子罕第九の十一」に、「既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖(いえど)も、由(よし)なきのみ」と、孔子の一番弟子・顔回が嘆息して発した言葉があります。
之は、「私自身は出来る努力を尽くしているつもりなのだが、先生は高所にそびえ立って居られるかの様に私には感じる。出来れば私もその様な高みに達したいと思うのだが、まず無理であろう」といった意味になります。顔回が前に進んでも孔子は常々更に先に行っている、ということで完成は中々難しく、教育に携わる者の在り方が問われるものです。
あるいは、昔から人の使い方として「使用…単に使うこと」「任用…任せて用いること」「信用…信じて任せて用いること」とあります。また、人を育てるには山本五十六元帥の至言「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」にある意味尽きるとも言えましょう。
更に、人物を得るに「上にある者、下の者と才智を争うべからず」「己が好みに合う者のみを用うるなかれ」等々、所謂「(荻生)徂徠訓」が大事なのは論ずる余地もありません。要するに、世に言われている上記類は蓋(けだ)し至言です。
難しい問題は、人を用いる者が指導者たる人物であるか否かということです。賢材を見出し育てようと思うならば、色々な形で自分自身でも人物を目指している人でなければなりませんし、その結果として様々な教養や考え方が身に付いている人でなければなりません。
例えばモンゴルのチンギス・ハンが54歳の時、若干27歳の耶律楚材(やりつそざい)という逸材を見出せたのは、その風格・品格といったものを一瞬にして感じられる眼力が、彼に備わっていたからに他なりません。
兎にも角にも、人の上に立つ者は自分がそこまでの域に達していないとしても、一つの理想像を描きその理想像に近付くよう下の者を育てて行こうと一生懸命努力し続ける、ということも大事だと私は思っています。
明治の知の巨人・安岡正篤先生が重視されていた『書経』の言葉に、「自靖自献(じせいじけん)…自ら靖 (やす) んじ自ら献ずる」というのがあります。之は「内面的には良心の靖らかな満足を求め、外に発しては世のため人のために自己を献ずる」といった意味で、此の「“靖献”は我々の人格生活上に実に適切な一語」だと思います。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。