三浦春馬さんの自殺とALSを患っていた方の自殺ほう助という二つの痛ましい事件がありました。ALSの事件はほう助の方が話題になっていますが、実質的には患っていた方の死の選択であります。なぜ、人は死を選ぶのか、そしてその背景には何があるのでしょうか?これには多分、明白な答えはありませんが、議論する意味は大いにあるかと思います。
人間、そこそこ生きていると周りで自殺する話は一つぐらいはあったりするかもしれません。私は会社員時代に2回あります。一人は私が秘書の時、会社のブレーンの一人で優秀な30代後半の次長さんでした。ある朝、電車に飛び込みました。その前日の夕方、その次長と私は次回の取締役会の議事録の打ち合わせをしたばかりでしたが、特段おかしなことはありませんでした。
自殺後に残された家族は思い当たることがないとよくコメントをするのですが、その次長さんは生真面目すぎるきらいがあり、悪く言えばフレキシビリティゼロで完璧主義者でもありました。それがどこかで歯車がずれ、修復不可能になったのでしょうか?
もう一件は私がバンクーバーに赴任してから同じ北米の某事務所に勤務していた若手でした。彼とは会議などで会い、ウマが合い、彼の誘いで私もマラソン大会にも出るようになるほど明るくて前向きの男でした。そんな彼がある朝、会社で首つりしていたという一報に接した時は凍りつきました。会社で死を選んだのは会社に対する恨みがあったわけで原因もわかっています。その事務所はその後、事業がうまくいくことなく閉鎖されました。
一般的な自殺とは個人が抱える物理的問題が精神的負担となって悪の循環に入るのではないかと思います。警察庁の調査を見ていると年代と自殺理由に一定の推移があるのに気がつきます。10-20代は学校問題、20-40代が男女問題、20-50代が勤務問題、20-60代が経済問題、30-70代が家庭問題、30-80代が健康問題といった具合です。ただ、健康問題を主因とする自殺は他の理由を圧倒(二番目に3倍ぐらいの差)しています。
また職業でみると無職の人と被雇用者が90%を超えています。絶対数が違うので経営者や学生は自殺しにくいという意味にはならないと思いますが、社会や組織で一定の圧力を受けやすい立場の人は精神的病に苦しむ傾向はあるのでしょう。経営者も会社が行き詰まるような景気となれば増えてくるでしょうし、いじめによる学生や生徒の自殺もなくならないものだと考えています。
ところでかつて自殺した有名人3人についてなぜだったのか、考えてみたいと思います。
尾崎豊。かれは三浦春馬さんと非常に近い理由ではなかったかと思います。超多忙で大量飲酒はそっくりです。尾崎さんは更に薬物反応まで出たので精神的バランスを失っていたのでしょう。彼の歌詩から内面を突き詰めるタイプでその壁にぶち当たったような気がします。三浦さんと違い奥さんがいたのに残念な話だったと思います。
太宰治。この人は不思議でした。代表作「人間失格」は半自叙伝だと私は思っていますが、愛人との自殺、しかし、愛人は太宰のことを愛し、太宰は奥さんを愛すとする遺書は辻褄があいません。芥川賞が欲しくて審査員の川端康成に殺意を示したりその次は芥川賞をくれと懇願してみたりと内面的崩壊があったのでしょうか?
三島由紀夫。様々な見解がありますが、私はあえて独自の見解を出します。彼は森田必勝と男同士の愛があったとみています。ゲイという一般的表現ではなく、男同士の精神論に近いものだと思います。その上、彼は自分の自殺を美化したかった、そして最高の舞台で自衛隊員という衆目の中、森田と共に崇高のエクスタシーを求めたのだろうと思っています。
自殺は絵になりません。三島の自殺も散々な評価です。人が死を選ぶとき、それは自身のロジックが破綻した時であります。韓国ソウル市長が自殺したのは自身の表の顔と裏の顔がまるで違うことで人前に出る立場としてどこにも逃げられなくなったことだろうと察します。
自殺は人を狭く細い路地に追い込み、その先が行きどまりになることだとすればそんな路地に入らず、大通りを大手を振って歩ける社会を組成するしかありません。が、そんなきれいごとで済まされるなら世の中誰も困らないわけで太古の時代から人は自分の精神力との戦いを人生の間、ずっと続けなくてはいけない性にあります。
強い人間になるためにコミュニケーションを維持し、一人こもらず、思想のポケットに入り込まないようにすることはそんな社会を少しでも明るくする方法なのでしょう。ただ、どうやったらよいのか、一度閉じた蓋は本当に開かなくなることは私なりにもわかっているだけに奥深く、明白な解決策がない永遠の問題であります。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年7月27日の記事より転載させていただきました。