では、上流の時代を分ける鍵は何か。言うまでもないが、これは人材(人財)に他ならない。発想・構想に基づいて企画・設計をする上流部分は、様々な分野において、まだかなりの程度、人間がやらなければならないからだ。
先述のとおり、特に最近、この流れが加速していることは間違いないが、実は、本質的には昔から変化していないとも言える。日本企業が世界に燦然と輝いていた時代、各国を席巻していたソニーの製品やホンダの自動車は優秀な職人によるものづくりの結晶ではあるが、特に、発想や構想に優れていたことが実は本質であるとも言える。トヨタが今でも世界で強いのは、「ハイブリッド」などの発想・構想に基づく企画・設計力が大きい。
羽のない扇風機(ダイソン)や、人手の要らない掃除機(ルンバ)や、小型の飛行物体(ドローン)で日本企業が出遅れてしまったのは、技術的に作れなかったわけではなく、発想・構想に基づく企画・設計力が足りなかった結果である。
それではなぜ、一時期は世界の憧れの対象だった日本からそうしたユニークな発想・構想、それに基づく企画・設計力が消えてしまったのか。乱暴にまとめれば、人間力が落ちているからだ。教育がなっていないからだ。正解を作るのではなく、与えらえた選択肢の中から正解を探す教育ばかりが跋扈してしまい(学校教育だけでなく、家庭教育や大企業等での社員教育も同様だ)、同時に、発想や構想を実現するために様々な困難を突破する打たれ強さ・辛抱強さの大切さも教えられることは稀になって来ている。「優しい時代」「合理主義の時代」の波の間で、泡となって消えつつある。
学校教育・家庭教育・企業教育のいずれの局面においても、「上流段階」、すなわち、「鉄は熱いうちに打て」ではないが、最初に、こうした構想・発想の大切さ、企画・設計をして実現に向けてやり抜くだけの強さ、を教えなければならない。否、教えて伝わるものではなく、親や先生や先輩や上司が、背中を見せなければならない。
私が個人的に大注目している、起業家論で有名なサラス・サラスバシー教授(バージニア大)によれば、目標や結果から逆算していくようなバックフォワード的発想(コーゼーション)より、自分は誰で、何を持っていて、誰を知っているかと言うリソース(持てる資源)をベースに、結果を作っている「エフェクチュエーション」的発想・行動こそが、起業を成功させる鍵だとのことだ。自分の持てる武器を確かに認識しつつ、夢のため、或いは大義のため、見えない世界に飛び込んで挑戦する勇気。我が国の人材が失ってしまった気風はこれに尽きるであろう。
当たり前だが、上流というのは結果から最も遠い段階の話であり、結果が見えないから怖い段階とも言えるが、逆に、自由に泳ぐ余地が大きいので面白い段階でもある。こうした荒波に乗り出せる人財が少なければ社会が衰退するのは自明である。逆説的だが、リスクを取らずに安全に生き永らえようとする機運に満ち満ちている限り、当該社会が厳しい世界で正当に生存できる可能性は減退する。
大きなトレンドとしても、短期的なコロナ危機を見ても、本格的な「上流」の時代の到来を感じざるを得ない。今こそ、私が日頃説いている「始動力(=リーダーシップ)」が求められていると言えよう。