人はなぜ「原爆の日」を追悼するのか

6日は広島の「原爆の日」だった。9日は長崎が被爆した日だ。今年で75年目だが、世界で初めて被爆した広島と長崎の「原爆の日」を迎える度に、遺族関係者だけではなく、世界の人々が犠牲者へ追悼の意を表し祈りを捧げる。追悼、祈りは宗派、民族、国家の区別なく、神を信じる人、無神論者、そして不可知論者の区別もなく、被爆によって犠牲となった多くの死者への哀悼だ。

▲平和の鐘(広島平和記念公園で、2019年5月、撮影)

ウィーン市16区には児童文学者カール・ブルックナー(1906年~82年)が1961年、2歳で広島で被爆し、10年後12歳で白血病で亡くなった少女、佐々木偵子さんをモデルにしたノンフィクション作品「サダコは生きたい」を発表し、世界中に翻訳された。ちなみに、ブルックナーの出身地、オタクリング区役所前には原爆で被爆した広島市役所旧庁舎の敷石で建立された「広島平和記念の碑」がある。

追悼は「原爆の日」だけではない。東日本大震災でもその日が到来する度に、遺族関係者は突然去っていった家族、友人を追悼する。亡くなった人を思い出し、その悔しさ、悲しみを慰め、それらの思いが一刻も早く昇華することを祈念する。

ところで、人が運命的な出来事に遭遇し、家族、友人、知人を突然失った時、直ぐに祈れるだろうか。精神分析学の開祖フロイトは愛娘ソフィーをスペイン風邪で失った時、「運命の、意味のない野蛮な行為」と評し、憤りを吐露したという。

同じように、第2次世界大戦が終焉し、強制収容所にいた多くのユダヤ人が解放されたが、彼らの多くは解放されたという事実を喜ぶ一方、「なぜ神は我々をこのように非人道的な状況下に置き、何もされなかったのか」という一種の憤りが心を占め、アウシュビッツ解放後、神を捨てたユダヤ人が出てきた。悲惨な状況下から解放されたユダヤ人はその直後、平静になって神には祈れなくなったわけだ。

ドイツの実存主義哲学者のハンス・ヨナス(1903~93年)は「アウシュビッツ以後の神」という著書を出し、ナチス・ドイツの絶対悪に対してなぜ神は沈黙していたのか、暴力の神学的意味などを追求した。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。(「アウシュビッツ以後の『神』」2016年7月20日参考)。

戦争や大災害で犠牲となった遺族関係者が、亡くなった家族、友人のために追悼し、祈りを捧げるようになるためには時間が必要だろう。「なぜ彼は死ななければならなかったのか」、「どうして彼女は……」といった思いを遺族関係者が完全に昇華できるまでにはやはり時間がかかるからだ。

広島、長崎の「原爆の日」は今年で75年目を迎えた。その間、遺族関係者の追悼の内容、祈りの内容は変わっただろうか。犠牲者への思いと共に、わたしたちが犠牲者に代わってより良い世界を作っていかなけれならないといった責任感が湧いてくるのではないか。

▲ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)

ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール(1908~2005年)、独自の実存的心理分析( Existential Analysis )に基づく「ロゴセラピー」で世界的に大きな影響を与えたオーストリアの精神科医、心理学者、ヴィクトール・フランクルもそうだった。

当方は25年前ごろ、ヴィーゼンタール氏と知り合った。彼は戦後、ユダヤ人を虐殺したナチス幹部を探しだすことに人生の後半生を投入した。戦争が終わって50年以上経過しているのに、彼は逃亡したナチス幹部を追い続けた。

当方は「なぜ?」と単刀直入に聞いたことがあった。ヴィーゼンタール氏は、「生きている人間にはナチス犯罪者を許す権限はない。出来るのは彼らに殺された人間だけだ」と答えた。だから、彼らが「もう許す」というまで、ヴィーゼンタール氏は元ナチ幹部を追い続けた(「同世代への『連帯感』と『責任』」2019年10月8日参考)。

犠牲者の時間は被爆した時、止まったままかもしれない。一方、われわれの時間は休むことなく動く。世界が今なお核の脅威にさらされているとすれば、わたしたちは被爆者に対してその責任を果たしていないことになる。犠牲者を解放し、より安全な核フリーの世界に生きることができるまで「原爆の日」を追悼しなければならないわけだ(「第2次冷戦と『核兵器』の占める位置」2020年8月4日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年8月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。