新型コロナは、誰も罹ったことがなかった「ただの風邪」 --- 中村 哲也

新型コロナが、「ただの風邪」かについての様々な議論があるが、私の頭の中の整理を書いてみたい。

写真AC:編集部

最初に結論を言うと、新型コロナは、誰も罹ったことがなかった「ただの風邪」である。ここでの「ただの風邪」とは、ウィキペディアの「風邪」の定義とほぼ同じとする。

「誰も罹ったことがなかった」と「ただの」は矛盾するので、厳密には、「誰も罹ったことがなかった風邪」であるが、この稿では、「風邪」を「ただの風邪」と表現することをご容赦頂きたい。

なお、私は医学方面の専門家ではないので、以降お読みになるのであれば、それを前提として頂きたい。

さて、「誰も罹ったことがなかった」については、異論のある方はごく少数であろう。今回、この「誰も罹ったことがなかった」が、大きく2つの問題を引き起こした。

ひとつは、「誰も罹ったことがなかった」ことにより、抵抗力のない人がかなりな数に上り、感染が広く速く拡大したことである。

また、バイタルや免疫力が低下した方にとっては、最後の一線を越える直接的原因が一つ増えたことになり、当面は、未感染者が多いことから、危険な要因であろう。

もうひとつは、「誰も罹ったことがなかった」ことにより、ニュース性が大きく、マスコミがこぞって取り上げ、視聴率を稼げる方向へ放送内容がシフトした結果、多くの国民が、不安感を持ったことである。

元々、東京オリンピック関連のコンテンツを予定していた時期だったので、コンテンツの差し替えが必要で、各種の自粛が障害となり、番組制作は困難だったはずである。コロナ関連情報の取材活動については、唯一公共性が高いというエクスキューズがあったことも、コロナ関連の放送が多くなった一因だと思う。

そして、コロナに関する情報が埋蔵?される鉱山?に、ゴールドラッシュ?が起き、掘りつくされて、ごく小さなかけらにも大きな価値が生じるバブリーな状況となっている。テレビというのは常にコンテンツを必要とするもので、ほんのわずかな情報で「尺を持たせる」技術は磨き抜かれている。

本筋ではないが、最近、政府広報を様々な媒体で目にする機会が多くなった。必要な内容だとは思うが、その費用に関し、民間企業が支払っている単価と大きく乖離していないか心配である。

次に、「ただの風邪」かどうかの判断であるが、アゴラ執筆陣の多くの方の論評から、私は、致死率で考えることが妥当とし、季節性インフルエンザ程度のようなので、「ただの風邪」と整理した。少なくとも日本ではそう考えてよいと思う。

したがって、政府の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」において、新型コロナの特徴に関する多くの記述が、3月28日の策定時のままなので、これは更新すべきと考えている。

 科学的根拠ではないが、古くから「ただの風邪」と軽く考えることへの戒めとして「風邪は万病のもと」、「風邪をこじらせる」といった慣用句がある。

これは、新型コロナにもぴったり当てはまることから、新型コロナを「ただの風邪」といっても問題ないことを補強している。

新型コロナの感染パターンや、発症に関する特徴がインフルエンザとは異なるので、「ただの風邪」ではないと思う方もいるかもしれないが、風邪の原因となるウィルスや細菌は数多あり、おそらく、そのバリエーションの範囲ではなかろうか。

よって、新型コロナは、日本では、誰も罹ったことがなかった「ただの風邪」である。

中村 哲也   団体職員(建設分野)