「洗礼」を受ける成人が増えてきた

ローマ・カトリック教会の信者数が年々、増加している。一時は人口大国の中国に迫る勢いすらあった。ところで、信者が増えるということはカトリック教会の教えが社会で一層受け入れられてきたことを意味するのだろうか。

洗礼を受ける成人が増えてきた(バチカンニュース2020年8月23日から)

実情は逆だ。聖職者の未成年者への性的虐待事件が報じられない日がないほどだし、米教会では聖職者の性犯罪への賠償金の支払いが難しく、破産宣言に追い込まれる教区も出てきている。バチカン教皇庁の資産管理も問題だらけで、不動産に投資するなど、神の職務とは関係ない所で信者からの貴重な献金が浪費されている、といった具合で、世界最大のキリスト教会、ローマ・カトリック教会の信頼は地に落ちている。「子供を神父の近くに近づけない」という両親さえいる。

フランスの人気作家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)の近未来小説「服従」のように、カトリック教国のフランスでイスラム教徒の大統領が選出されるといったストーリが現実味を帯びてきたような時代圏に生きている。

にもかかわらず、バチカンが発表する信者数は減少するどころか少しづつだが増えているのは何故だろうか。理由は簡単だ。新生児が洗礼を受けるからだ。信者の親は子供が洗礼を受けないと、子供は将来教会で婚姻できないし、親自身が死んだ場合、教会葬もできないからだ。洗礼を受けて困ることはドイツ教会のように教会税を導入している国だけだろう。子供が働き出し、給料をもらうと教会税として数パーセント差し引かれる。いずれにしても、新生児が洗礼を受けるから信者数は自動的に増える。毎年の教会脱退者(数万人)より新生児数が少ない国はないだろう。

もちろん、新生児は神の存在とか、近い将来遭遇するであろう悪魔の業といったことを知ったうえで洗礼を受けるのではない。気が付いた時、自分は洗礼を受けていたのだ。日本の代表的カトリック作家・遠藤周作もその一人だった。遠藤は「体に合わない服を勝手に着せられたような」と表現している。

ところで、ベルギー教会では過去10年間、成人になった後、神を発見し、洗礼を受ける人が増えているという。バチカンニュースが24日、報じていた。新型コロナウィルスの感染拡大で自身の生命ばかりか、社会、国家の未来に対して不安が高まっている。そこでこれまで忘れていた神の存在について考え直し、教会の戸を叩く人が増えてきたのだろうか。

新型コロナウイルスが猛威を振るっている2020年も18歳以上の成人305人が洗礼を受けたという。前年比で61人の増加だ。2010年は成人洗礼者数は143人だったが、5年後は180人に増えている。成人洗礼の場合、1年間の準備期間が必要だ。それから最初の聖体拝領を受けることになる。

成人洗礼の増加といってもその数はまだ少ないが、教会にとって良き知らせかもしれない。聖職者の性犯罪が増え、教会の不祥事が絶えない時、教会の戸を叩く健気な人間がいるということは、教会関係者にとっても嬉しいだろう。

そして次は、「どうして」と聞いてみたい衝動に駆られるが、成人洗礼の場合、様々な理由が考えられる。世論調査のように何パーセントはこの理由から、といったカテゴリー化は難しい。

死の床で神の赦しを受け、カトリック信者として人生を閉じる政治家の話はよく聞く。1968年8月にソ連軍を中心とした旧ワルシャワ条約軍がプラハに侵攻した「プラハの春」後の“正常化”のために、ソ連のブレジネフ書記長の支援を受けて共産党指導者として辣腕を振るった、チェコスロバキア時代の最後の大統領、グスタフ・フサーク氏が死の直前、1991年11月、ブラチスラバ病院の集中治療室のベットに横たわっていた時、同国カトリック教会の司教によって懺悔と終油の秘跡を受け、キリスト者として回心したという話は、国民に大きな衝撃を与えた。

また、キューバの独裁者、フィデル・カストロ(1926~2016年)は2016年11月25日、死の直前にローマ・カトリック教会の聖職者から病者の塗油(終油の秘蹟)を受けていた(「フィデル・カストロの回心」2017年4月2日参考)。

フィデル・カストロ(ウィキぺディアから)

ここで考えたいのは、「死の床」ではなく、「人生の最中」に神を求め、洗礼を受ける成人のことだ。その数はまだ僅かだが増えているのは、無視できない現象だ。新型コロナ感染問題が関わっているのかもしれないが、ベルギーの教会では「過去10年間」で緩やかだが上昇してきている。新型コロナはその傾向をよりプッシュしたかもしれないが、それが全ての原因とはいえない。

若い人の中には「恋人がカトリック信者だから僕も」といった人もいるだろう。結婚相手がユダヤ教徒の女性だったから、ユダヤ教に改宗した有名な水泳選手もいた。情報が氾濫し、価値の相対化が進んできた現代社会では虚無主義に陥る人も少なくない。

そのような中で、「神に出会う人」はどのような人間だろうか。モーセがシナイの山で神の声を聞くといったドラマチックな出会いより、日常生活の中でちょっとした出会いや言葉から神を感じ、神を考える機会となるということは十分あり得るし、病気になって考え出す人もいるだろう。

山に登頂するにはいろいろなルートがあるように、神との出会いにも一定の公式というより、さまざまな道程があるはずだ。そこに何らかの共通点があるとすれば、人生で最高に乗っている時というより、弱っている時、落ち込んでいる時に神と出会う人が多いということだ。

「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるだろう」(「マタイによる福音書」第5章)とイエスは語っている。すなわち、悲しみ、弱っている時が神との出会いのチャンスといえるわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年8月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。