中国の携帯アプリ「ウィーチャット」で連日のように東京での生活を紹介しているが、中でもコロナに関し、特に反響の大きかったのは、医療従事者らへの感謝を呼びかけるバッジの話題だった。
薄いブルーの布に「Thank you ALL helpers 感謝の気持ちを忘れないでいよう」「ご自由にお取りください。バッジを着けて覚えていよう」と書かれ、一面に様々なデザインのバッジが止められていた。自宅近くの商店街を散歩していて見つけたもので、聞くと、杉並区立の劇場「座・高円寺」が企画し、周辺の数か所に設置して無料配布しているという。
中国では医師や看護師が感染し、犠牲となったケースが相次ぎ、医療従事者の献身と危険に関する認識が広く共有されていることも大きかった。官製メディアが一方的に「英雄」として宣伝するだけでなく、こうして幅広く庶民が自発的に気持ちを表現する方法に賛同する声も届いた。
バッジの意義を説明する中で、社会における「仲間意識」の概念を説明しようとしたが、中国語の力が及ばなかった。「伙伴(huoban)」が一般的なのかもしれないが、「相方」や「パートナー」程度のニュアンスしかないので、感情面でのつながりがうまく表現できない。時代が古ければ「同志」がぴったりだが、すでに国有経済下の社会主義的同志意識は過去のものなので、現代の若者に実感はなく、男性同性愛者の隠語としてしか受け取られない。
偶然とは不思議なもので、ふとしたきっかけで和辻哲郎著『人間としての倫理学』を開いていて、その答えを見つけた。
「倫というシナ語は元来『なかま』を意味する」
はっきりとそう書いてある。『説文解字』の解釈も「倫とは輩(ともがら)なり」である。『人間としての倫理学』には、「礼記に、人を模倣することは必ずその倫(なかま)においてすという句がある」との説明も加えられているが、『礼記』の原文は「擬人必於其倫」で、「人を比較する場合には同じ仲間、同じ基準でしなければならない」という現代の格言にもなっている。「擬」は「模倣」の意もあるが、ここでは「比較」の意であり、和辻の解釈は誤りだと思われる。これは余談だが・・・主眼はなかまが「倫」から生じ、「仲間」の漢字を当てられたことにある。
「なかまは一面において人々の中であり間(あいだ)でありつつ、しかも他面においてかかる仲や間における人々なのである」
こうした理解の上に立ち、人間の学として倫理学を打ち立てるため、人の「大倫」や「人倫五常(仁・義・礼・智・信)」といった人の道、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の人間関係における教えをとらえなおさなければならない。和辻はそう説く。本来中国語では世の中の意であった「人間」が、日本に伝わったのち、仏教の影響を受けつつ「人」そのものを意味するようになり、やはり仏教経典の「世間」が日常会話に入り込んだ。どこまでも「間」を重んじるのが日本の風土なのだ。
一定の関係や間柄において人を把握すれば、人の行為も孤立したものではなく、世間の中における行為となる。人を問うことはすなわち関係、共同体を問うことにほかならない。近代以降、西洋から輸入された個人主義とは明らかに異なる人の存在がある。道徳を公共の場、倫理を個人の領域と分ける考え方もあるが、関係の中で人を把握する立場からすれば、その区別に意味はない。
話が脇道に入ったようにみえるがそうではない。コロナ感染の中で、欠けているのが仲間、人間、世間という背景を持った人に対する把握だと思えるからだ。個人の自由や権利を訴えるが、社会から完全に孤立、独立した単独の個人は存在しない。自分は感染しても構わないという独りよがりや、人への感染に配慮を欠いた無責任は、関係の上に成り立つ人への認識がないことから生じる。「生活が成り立たない」という不安や不満は、別のカテゴリーに属する問題で、健康や生命に関する感染防止策と同列に語るべきではない。
自己の利益を優先させ、自粛要請を無視して深夜まで営業を続ける居酒屋があり、そこに群がる者たちがいる。自分たちは「関係」とは縁がないと言わんばかりだ。そうした心なき行為が、どれだけの関係を損なっているかを考えるべきである。
前回も書いたが、日本に来たくても来られない世界の若者たちがいる。夢にみた日本での留学や生活、あるいは旅行がストップしている。もちろん海外に羽ばたこうとする日本の若者たちもいる。関係を求める者が道を断たれ、関係に背を向ける者が大騒ぎする社会では、若者たちに夢を語る場を与えることができない。
先の都知事選では、候補者が大量の支持者を動員し、駅前で大演説会を開いていた。「コロナ対策」という言葉が何度も飛び出したが、あきれてものが言えなかった。政治家は目先の利益しか関心がなく、理念を語る言葉を持っていない。なぜコロナ対策が必要なのか。
首相は、妻の非常識な行為を弁解するので精一杯でなにも期待できない。東京五輪の延期はやむを得ないにしても、国も東京都も、来年必ず実施するという決意や意欲がまったく伝わってこない。ただただ、弥縫策ばかりが議論され、無策のまま時間が流れ、日々、感染者が量産されているのを傍観している。
書店には、増えた読者の在宅時間を奪い合うように、コロナに関する浮ついた議論をする本が目立つ。地に足がついていない、机の上で頭の中で描いた文章ばかりが目立つ。安易に政治的なテーマに焦点を当てて、故意か無自覚か、問題の本質から目をそらさせているような内容も少なくない。中には「コロナ後」とタイトルをつけているものもあるが、まさにコロナ渦のただ中にあって、どのような現状認識から生まれてくるのか不可解だ。
だからこそ、「関係」の中にある人間、なにゆえ「仲間」という言葉が生まれたかをもう一度、考え直す必要がある。新学期を前に、日本を一時離れる時間が迫っているからこそ、余計にその思いが強い。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2020年8月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。