近衛文麿は終戦から4ヵ月経った1945年12月16日に服毒自殺した。藤原鎌足を源流とする五摂家筆頭の当主で、盧溝橋事件の1ヵ月前から真珠湾攻撃の2ヵ月前までの間に3度政権を担った政治家が、連合国総司令部から戦犯指名を受けて10日後のことだ。
近衛の自決の動機やその思想信条などついては諸説あり、また謎も多い。近現代史家の鳥居民に「近衛文麿 黙して死す」(草思社)がある。同書で鳥居は、十代からの知友である木戸幸一との暗闘の末、近衛が命を絶つことになったことを明示する。
同書には木戸の甥の都留重人やその友人で当時GHQにいたハーバート・ノーマン、そしてノーマンの手になる「戦争責任に関する覚書」(以下、「覚書」)や、「米国戦略爆撃調査団(「ウズブズ」)」による尋問(以下、「尋問書」)などが登場する。
筆者が近衛の自決に興味を抱いたきっかけは鳥居の前掲書だが、それにもまして、ノーマンの近衛「覚書」の、余りに苛酷で非礼極まる近衛への人格攻撃ぶりを読み、ノーマンに何か尋常ならざる背景なくしてとてもここまで書けまい、と感じたことも大きい。
本稿では、「覚書」と「尋問書」の中身、ノーマンとウズブズに関係する者たちの人物像、終戦から死までの間に近衛周辺で起きたこと、そして近衛の思想信条と木戸を含めた交友関係などの公開情報を検討して、近衛自決の背景を考えて見たい。
先ずは、鳥居前掲書では余り触れられていないが、この問題を考える上で極めて重要な45年2月の重臣による陛下への個別奏上から、それらを順に追ってゆく。
木戸の奇異な振る舞い
44年7月のサイパン陥落でいよいよ戦況は逼迫、さしもの東条も退陣し、近衛や吉田茂らによる和平工作が動き始めた。45年1月、形式に流れる重臣会議を見かねた近衛は木戸に、陸海両総長を召されて陛下に真意をお伝えすべきと述べたが、木戸は既に奏上済、とにべもない。
木戸は宮中に壁を作り、高松宮すら「今年は一度拝謁しただけで、お話し申したことはない」と近衛に嘆いた(工藤美代子「われ巣鴨に出頭せず」)。
近衛の企図で、2月に重臣が個別に現下の認識を陛下に奏上することとなった。侍従長藤田尚徳は回想録に「陛下の終戦秘密工作」の一項設け、陛下の強いご意向を示唆する。
奏上は7日の平沼騏一郎、9日の広田弘毅、14日の近衛、19日以降に若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介と続き、最後は26日の東条英機だった。広田はソ連の仲介を、東条はこの期に及んでも戦争続行を説いた。近衛は後述するとして、他は「有利となる時期をとらえて終戦」を唱えた。
木戸には、この重臣奏上に関する奇異な振る舞いが二つある。一つ目は侍立。侍従長一人の侍立で進んでいたところ、14日朝、侍従長室に現れた木戸は藤田にこういった。
今日の近衛公の参内は私に侍立させてほしい。近衛公はあなたをよく存じ上げていない。それで侍従長の侍立を気にして話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公に思う通り話をさせてみたい。
藤田は「侍従長に遠慮しろということ」と受け取ったが、「陛下と近衛、木戸という方々の従来の深い関係を考えて」承諾した。ところが、木戸の奏上内容のメモには、「侍従長、病気のため内大臣侍立す」と記してあった。(藤田「回想録」)
二つ目は「木戸日記」にこの個別奏上の記載がないこと。実は「木戸は毎晩、机に向かって日記帳をひろげていたのではな」く、面会相手や時間、問答を記した別の手帳から週に一二度書き写していたが、「肝心な部分を移すことをしなかった」(鳥居民「昭和史を読み解く」)。
木戸は巣鴨に入って5日目の12月21日、国際検察局(IPS)の初尋問で日記があるか訊かれ、強制はしないが提出すれば真実を知るのに役立つと説得されて、通訳で同行した都留を通じ提出に同意した。無論、それは「別の手帳」ではなく、毛筆で認めた「日記帳」だ。
12月24日以降、木戸は30年から45年までの日記を3回に分けて、また開戦の41年分は46年1月23日に提出した。都留は他日、「日記中で天皇に不利な点がある記述は、提出前に関係者によって、若干、消されたとの話もある」と述べている(粟屋憲太郎「東京裁判への道」)。
近衛上奏文
3年ぶりに陛下に拝謁した近衛は、「木戸と東条が、我々の見る処を陛下に申し上げることを、極力防止した」としつつ、「責任の地位にあるもの以外が、余り陛下に接近して雑音をお耳に入れることも、妥当でないとの考えもなり立つわけで、陛下御自身の御方針もその様であった」と述べた(工藤前掲書)。
近衛は冒頭、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と述べ、続けて英米世論は日本の国体変更には至っておらず、敗戦によって憂うべきはむしろ日本の共産革命で、欧州や東亜でのソ連による容共政権の樹立工作があるとし、軍部内一味の革新運動への懸念と、これを取り巻く一部官僚や民間有志が国体の衣を着た共産主義者であるなど、共産勢力に対する懸念を露わにした。
最後は「この結論は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の各方面に交友を持つ私が、最近静かに反省して到達したもので、鏡にかけて過去十年の動きを照らしてみるとき、そこに思い当たる節々が頗る多い」とし、「彼らの背後に潜んでいた意図を充分に看取できなかったことは、全く不明の致すところで何とも申し訳なく、深く責任を感じております」と結んだ。
陛下は一問一答で、「軍部の粛正は、結局は人事の問題なるが」と問うた。近衛は「軍は永らく一つの思想によって推進し来った」とし、これに反対する者としての「宇垣、香月、真崎、小畑、石原」の流れの起用を述べ、摩擦がある場合は「阿南、山下両大将」の起用も一案とした。
陛下が最後に、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べられたのに対し、近衛は「そういう戦果が挙がればまことに結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう」と述べた。
陛下は、東条を除く重臣が述べたことを近衛にいい、反応を見たのだろう。果たして近衛の回答は、まさに陛下のお考えと合致したものだったと思われる。近衛の奏上ぶりをみると、やはり五摂家筆頭の当主ならではの、陛下に対する率直さが見て取れる。
近衛は帰りしな、木戸に和紙8枚に認めた上奏文を手渡した。工藤は前掲書で「侍立してメモまで取っていた木戸を見ていた近衛の嫌味」とし、「この和紙8枚がやがて大問題を引き起こす」と書く。大問題とは、4月半ばの憲兵による吉田茂や近衛側近の岩淵辰雄と殖田俊吉の逮捕だ。
この3人と皇道派の小畑敏四郎は、年初から近衛に奏上を説き、近衛と共に文案を練り、奏上前日に永田町の吉田邸で文案を完成させた近衛が、そのまま吉田邸に泊った経緯があった。皇道派とは近衛の述べた「軍を永らく推進した一つの思想」即ち、統制派、に反対する流れを指す。
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