「ウズブズ」と原爆投下の知られざる裏面史

高橋 克己

75年前に原爆が投下された8月6日、NHKは1945年のその日に広島に起きたことの特別番組を放映した。未曽有の大量破壊兵器の犠牲になった広島市街と、普段と変わらず暮らしていた市民に突然起きた惨状に、筆者は思わず目を覆う。

広島(左)と長崎への原爆投下(Wikipedia)

画面は被爆状況を視察する米国戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing Survey;USSBS。以下、ウズブズ)の一人ファレル准将の姿も映し出した。ファレルは、7月16日のアラモゴールドでの実験成功の目撃者として、「この世の終わりを警告する爆発音を聞いた」と書いた。この惨状に一体どんな心境で接したのだろう(「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」ロナルド・タカキ 草思社)。

ウズブズは、ルーズベルト大統領の命令の下、スティムソン陸軍長官によって44年11月に設置された米陸海軍合同の機関だ。

名前の通り、活動目的は米軍による爆撃の効果や影響を調査し、航空戦力の可能性を分析して軍事力整備に役立てること。欧州戦線を対象としていたが、ドイツ降伏に伴い、日本との戦域の調査をトルーマン大統領が追加した。

調査目的は、真珠湾を攻撃した理由、降伏を決定するに至った経緯、広島と長崎の原爆投下の効果など。フランクリン・ドーリエ(保険会社社長)団長とポール・ニッツら副団長2名の下に参謀部と調査部門が置かれた。調査部門には軍事、経済と民間の3グループがあり、総勢1千人の陣容だ。

ウズブズは終戦後の9月から年末まで日本各地で調査を実施、関係者の尋問などによって集めた膨大な資料を基に、46年7月までに報告書を作成した。日独両方の調査に参加したポール・ニッツと経済学者ガルブレイスには各々回顧録がある。

調査の一環でウズブズは11月9日、近衛文麿を東京湾のアンコン号に連行し長時間尋問した。内通者がいない限り米国が到底知りえない、微に入り細を穿った質問で、これがきっかけで12月6日に近衛に出頭命令が出され、15日に自死することになったと、市井の歴史家鳥居民は推察する。

鳥居は二・二六以来の近衛と木戸幸一の暗闘が背景にあるとし、木戸が甥の都留重人と都留のハーバード大の同級でGHQにいたハーバート・ノーマンに情報を流し、近衛を難詰させたとする。都留もノーマンも、尋問者の一人トーマス・ビッソンも知られた共産主義者だ(「近衛文麿 黙して死す」草思社)。

ノーマンは羽仁五郎に師事したカナダの日本研究者で、研究書がマッカーサーの目に留まりGHQに入った。ノーマンの手になる近衛と木戸の上申書がGHQに出された。長文で峻烈を極める近衛の上申書に比べ、木戸のそれは内大臣の地位を著しく低める、極く短いものだ(「ノーマン著作集」)。

近衛と木戸の暗闘については別の機会に譲り、以降は原爆が使用された経緯について述べる。

スティムソンは、広島に原爆が投下されたその日、米国民に「本日、大統領から知らされた、先ほどの日本に対する原爆投下は、軍事当局と協力して科学と産業の分野で何年もの間の精神的な努力の集大成」との一説で始まる、以下のような要旨の長文(17千語)の声明を発した。

この新兵器には想像力を揺さぶる爆発力があり、日本との戦争の短期終結に大きな助けになるのは明らかだ。原子力の科学知識の交換が、連合国と枢軸国の間で戦争開始まであった。現況は不詳だが、日本が原爆を使用する立場にあるとは、我々は確信してはいない

ルーズベルトは39年後半、英国が進めていた原子力の軍事利用の可能性に注目した。そしてチャーチルとの間で、プロジェクトを迅速かつ効果的に結実すべく米国に集中することが合意され、多くの英国の科学者が1943年後半までに米国に渡った。

42年6月、プロジェクトの大幅拡大と主要部分の陸軍省への移転が決定した。プログラムの軍事的側面の継続的検討のため軍事政策委員会も設けられ、材料の開発・製造、核分裂爆弾の製造、武器での使用を含むプログラムに関連する軍事政策などを検討する責任を負った。

工場は、テネシー州ノックスビルの59千エーカーとワシントン州パスコの43万エーカーの政府所有地に設けられた。前者には作業員と家族78千人が暮らすオークリッジ市が作られ、後者にも17千人の作業員と家族が住み、セキュリティと安全性を考慮した生活条件が設定された。

材料を生産する小規模工場が米国とカナダに作られた。コロンビア、シカゴ、カリフォルニアの各大学、アイオワ州立大その他の学校の研究所や産業研究所が多くの民間企業もプロジェクトに貢献している。カナダにも研究所と施策設備が設けられ、米英の支援でカナダ政府が運営している。

部品を爆弾に作り上げる際の技術問題に対処する特別な実験室が、ニューメキシコ州サンタフェに設けられた。実験室はロバート・オッペンハイマー博士によって計画、組織、指導された。爆弾の開発は主に彼の天才と彼が仲間に与えた直観力と指導力による。

陸軍省での責任者グローブス少将が、短期間で効果的な開発を確保したことは卓越している。プロジェクトには厳密な秘密と安全対策を有し、政府と科学の少数高位者だけが全体を知る。作業は完全に区分されており、関与する何千人もが特定の仕事を行うために必要な情報以外は与えられない。

巨大プロジェクトに関し市民が国会議員に質問することは避けられないが、議員は協力的で軍事的な安全のため情報開示をしないとの陸軍省の声明を誠実に受け入れた。新聞とラジオも検閲局の要求に心から応じて、あらゆるフェーズでの公表は抑制されている。

議会はその財源が国の安全保障にとって不可欠であるという陸軍長官と首席補佐官の保証を受け入れた。45年6月30日までに19億ドルを超えた支出を、議会が綿密にチェックすることは不可能だったが、適任の科学者と工業リーダーらによって随時レビューされた。

スティムソン声明の大要は上記のようだ。が、ここで述べられていないことも多い。例えば、スパイによって原爆の秘密がソ連に筒抜けで、7月16日にポツダムでトルーマンが実験成功を知るのと同時に、スターリンもそのことを知っていたことだ。逆にこれはスティムソンも知らなかったことだろう。

20億ドル近い支出もこの声明で初めて明らかにされた。が、この支出の正当性は、実際に原爆を投下して、その効果を米国議会と米国民に知らしめることでしか証明し得ないものだった。ドイツが降伏していた以上、その証明機会は日本への投下でしか得られなかったのだ。(参照:終戦秘話③ なぜ米国は原爆を使わねばならなかったのか

日本の降伏を発表するトルーマン大統領(Wikipedia)

4月12日、ルーズベルトの急死によって、「偶然」に副大統領から大統領になったトルーマンに「歴史上、もっとも破壊力のある兵器」の存在を知らせたのもそのスティムソンだ。そのトルーマンはスティムソンが「原爆が戦争終結を早めるのと同じ程度に、歴史を作るものとして関心を持っていた」と回顧録に書いた。

スティムソンも「準備ができる前に、航空隊が徹底した爆撃鵜を進めて、新兵器の威力を示せる適切な場所がなくなってしまう、と少々心配している」とトルーマンにいうと、大統領は「笑って、よくわかったと言った」と日記に書き残した。

これが東京裁判でブレークニー弁護士が言わんとした原爆投下の裏話の一端。毎年、お盆のこの時期になると父祖への思いと共に 米国のこの残忍さを思い出す。が、何事も水に流す日本人の血がわが身にも流れているせいか、一瞬の風のように頭をよぎるだけだ。