国際社会は激変した。政治家も変わらなければならない

細野 豪志

安倍政権が幕を閉じようとしています。中高生が「安倍総理以外は記憶にない」と話すのを聞くにつけ、7年8か月という月日の長さを実感します。

安倍政権がスタートした当時、私は民主党幹事長でした。野党の役員として予算委員会で総理に対し激しい論争を挑んできました。昨夏、自民党会派入りした際、緊張して最前列に座る私に、総理は笑顔で「期待しています」と握手を求めてこられました。初めて総理の人柄に触れた気がしました。自分でも遠くに来たものだと思います。

一度、政権を手放しながら復活し、史上最長政権を実現するというのは奇跡的なことです。長期政権ゆえの様々な問題が指摘されたことは事実ですが、経済・外交での成果は長期政権ゆえに実現されたものだと思います。凄まじい重圧の中でこの国を牽引してこられた安倍総理と、総理を体を張って支えてこられた方々に敬意を表したいと思います。

菅義偉長官に期待すること

『国家が背骨に入っている』とも言うべき安倍総理の強さは、世襲により積み重ねられたものだと思います。世襲は時に批判の対象になりますが、私は必ずしも否定すべきものではないと考えています。幼い時から家庭で国家や政治・政策の会話がなされる環境は子どもの成長に影響するのでしょう。『国家が背骨に入っている』という感覚は、一代ではなかなか身につくものではありません。永田町で多くの政治家と接してきて、世襲は政治家の強みにもなると考えるようになりました。

ただし、世襲の総裁が続き過ぎたのではないかとも感じています。自民党は久しく叩き上げの総裁を出していません。私がイメージするたたき上げの政治家は、派閥の会長である二階俊博先生や生前お世話になった野中広務先生。自らの才覚と努力で地位を築いた叩き上げ政治家にはそれぞれ独特の魅力があり、私が最も惹かれるのはそうした方々です。

新たな総理は、新型コロナウイルスと経済の落ち込みという2つの危機に向き合わなければなりません。総裁選の有力候補である菅義偉官房長官には、多くの危機を乗り越えてきた強さがあります。時にこうした総裁が出てこないと政界は活性化しないと思います。

新しい政権の誕生は『解散の大義』になりうる政治の重大な変化です。新総理が誕生する以上、いつ総選挙があってもおかしくありません。これまでもことあるたびに説明はしてきましたが、自らの立ち位置を明確にお示ししたいと思います。

政治家も変わらなければならない

『細野豪志は変節した』とのご批判を頂きます。非自民の立場を転換したという意味では確かに私は変わりました。しかし、20年間で中国、北朝鮮などの我が国周辺の安全保障環境が激変している中で、私は政治家も変わらなければ国民に対する責任を果たせないと考えます。

これまで野党から自民党入りをした政治家は少なくありません。しかし、これだけ長く非自民に身を置き、多くの役職を経験した人間が自民党入りを目指すというのはこれまで例がないと思います。ご批判があるのは当然ですし、それを乗り越えて審判を受けなければ政治家を続ける資格はないと考えています。

政治家として細野豪志が目指すもの

まずは私が実現したいことから書きたいと思います。政治家としてスタートした20年前から、私が大切にしてきた政治理念が三つあります。

① 内政は弱い者の立場に立つ
② 多様性(ダイバーシティ)を大切にする
③ 外交安保は現実主義に立つ

内政では①と②の理念を大切にして、児童虐待、子どもの貧困、ハンセン病、LGBT問題、口唇口蓋裂などの課題に取り組んできました。今年4月に施行された改正児童福祉法には、児童相談所の機能強化、体罰禁止など私が長年訴えてきた政策が入りました。こうした分野で成果を出すことができた時、政治家としての最も大きな喜びを感じます。

親の体罰禁止、20年4月から 改正虐待防止法が成立(共同=日経電子版)

ちなみに、野党時代に生活保護家庭の進学について予算員会で質問したところ、菅長官からわざわざ連絡を頂いて実現に道筋をつけて下さいました。ご自身が苦労してこられたがゆえに、菅長官には厳しい立場にある人たちに対する温かい眼差しがあります。

生活保護家庭の進学で小さな一歩

私が野党を離れた理由

①と②の理念を実現するためなら野党で良いではないかと考える方もいるかも知れません。実は野党にいて内政政策で矛盾を感じることはほとんどありませんでした。私が自民党入りを目指す最大の理由は、野党の中で外交安全保障が合わなくなったためです。

思い起こすのは、10年前の尖閣諸島の漁船衝突事故の際、訪中し交渉にあたったときのことです。民主党政権は的確に対応できず、国民に失望を与えることになりました。当時と比較しても、尖閣諸島周辺の環境は格段に厳しくなっています。同じ失敗は繰り返してはなりません。

国際社会の厳しさを知るものとして、国益のかかった外交安保の場面で単なる反対の立場に立ちたくはありませんし、わずかでも国益に資する貢献をしたいのです。

私は理念が変わることこそ政治家としての本当の変節だと考えます。これからも、私の3つの政治理念が変わるのことはありません。

命をかけて国民のために戦う自衛官の生涯を支える仕組みをつくりたい

私の選挙区には陸上自衛隊の駐屯地が4つあり、自衛官や家族の声を聞く機会に恵まれています。増加している災害派遣は、国民のために働いているという自衛官のモティベーションにもつながっていますが、家族からは危険手当の少なさを指摘する声も聞こえてきます。自衛官の家庭のお子さんは転校が多くて大変だといういう話も頻繁に耳にします。一つ一つ現役自衛官の待遇改善に努めていきたいと思っています。

自衛隊の役割は拡大していますが、陸海空全体の定員約25万人のうち欠員が2万人以上という危機的状況が続いています。自衛官募集の担当者からは「警察や消防と同じ若者の募集で競うと負けるケースが多い」という話を聞きます。

警察や消防は定年を全うすることができますが、自衛官には若年定年制度があります。高卒の若者が自衛官になることを希望していても母親が反対するケースが多いようです。警察も消防も危機管理において大きな役割を担っていますが、自衛隊の役割が拡大している中での自衛官の不足は極めて深刻です。

米国には国防総省とは別に退役軍人省という役所があります。職員38万人、8兆円の予算規模を有し、退役軍人及びその家族の医療的ケア、給付・手当、援護(再就職を含む )などを業務としています。軍人の年金は全て税金でカバーされるなど、命を張った軍人を国家がケアする仕組みが整っています。

退役軍人省は143の病院、1241か所の診療所、300か所の退役軍人センター、56か所の地域 オフィス、136か所の国立墓地を配置しているというのですから、そのスケールの大きさに驚かされます。

米国軍人のリスクは他国の軍隊と比較しても高いのは事実ですが、日本の自衛官もテロ対策や災害派遣、海外派遣などリスクは確実に高まっています。わが国も体制を整えるべき時期が来ていると思います。

少子化で自衛官の募集は更に厳しくなるでしょう。国民のために命をかけて使命を果たしてくれる自衛官に名誉ある地位を与えることは、この国を守ることそのものだと私は考えます。これこそ、政治家の仕事だと思うのです。

「なぜ初めから自民党に入らなかったのか?」

安全保障の話をすると必ず受ける質問です。そこは私の政治家人生を振り返る必要があります。少しお付き合い下さい。

保守二大政党の時代に政治の世界に

私が初めて投票権を手にした総選挙は1993年に行われました。自民党分裂直後の選挙で新たな枠組みに期待して一票を投じたところ、細川連立政権が誕生しました。その後の新進党の誕生を目の当たりにし、いよいよ日本でも保守二大政党が誕生すると考えるようになりました。

私が立候補すべく民主党に入党したのは1999年、翌年28歳で初当選しました。当時の民主党には、羽田孜先生、渡部恒三先生ら保守二大政党を体現する幹部がおられました。ある大先輩に懸念をぶつけたところ「二大政党の時代において、野党の政策は与党と8割同じで良い。ましてや外交安保は同じであることが望ましい」との答えが返ってきて、安心したものです。

2002年から2003年にかけて小泉政権の時代に有事法制が国会で議論されました。民主党内では賛否が分かれ激しい議論が戦わされましたが、何とか党内の反対論を突破して、自公民の三党で法律を成立させることができました。30代になっていた私は、思い描いた二大政党がかたちになったと胸を躍らせました。当時の民主党には、自衛隊の存在すら認めない政党と組むなどという話をする議員は誰もいませんでした。

その流れで民主党は2009年に政権交代を実現しましたが、普天間、尖閣などの外交安保政策で行き詰まり、下野することとなりました。私は、保守二大政党の立ち位置を今一度確立して政権を目指すべきだと考えましたが、挫折を経験することになります。

曲がり角となった2015年の安保国会

2015年の安保国会を私は民主党の政調会長として迎えました。しかし、安保法制を検討するための安保調査会が新たにつくられ、安保調査会長は政調会長と同列とされため、私は安保法案を所管することができなくなりました。

政府案が提出される中で民主党内の議論は遅々として進みませんでした。最低限、尖閣諸島、できれば朝鮮有事に対応する民主党案をつくらなければ、政府案に反対するだけで終わってしまうと感じていました。政府案に遅れて不十分ながら民主党案はできましたが、法案を国会に提出する段階になって問題が発生しました。

「法案を国会に提出した上で安倍総理と党首会談をやるべきだ」

民主党の役員会で何度も主張しましたが、賛同者はいませんでした。早い段階で、民主党案を国会に提出していれば与野党合意の可能性はあったと思います。あの国会は痛恨の記憶として今も私の中に残っています。

野党を離れるきっかけとなった街頭演説

安保国会の最終盤、今でも覚えているシーンがあります。当時、国会の前には安保法制に反対する人たちが多数集まっていました。単なる反対は私には合わないと考え距離を置いていたのですが、弁士がいないからと党から依頼されて初めて街頭に立ちました。

「地球の裏側の戦争に参加するのは反対だが、尖閣諸島を守る法案などは必要だ」と言ったら野次が飛んできて、拍手はまばらでした。「憲法違反」という表現は使わないと決めていましたが、聴衆の反応に合わせて最後は「法案の成立を阻止する」と発言しました。

あの街頭演説で、自分が目指してきたものと自らの現実の姿のギャップを痛感しました。元来楽天家の私ですが、あの街頭演説の後は自己嫌悪で落ち込みました。党の方針と自らの理念が合わないと考え、その後のテレビ討論は政調会長代理だった辻元清美さんに任せて沈黙しました。

安保法制の肝は限定的な集団的自衛権の行使が認められ日米同盟が強化されたことです。当時の安保法制を否定する私の発言は厳しい国政情勢にそぐわないものでした。自らの未熟さゆえの過ちをお詫び致します。

共産党を含めた野党共闘本格化。自民党入りを目指す

安保国会を境に共産党も含めた野党の共闘が始まりました。すでに羽田先生や渡部先生の姿は国会になく、私が入党した当時の民主党の面影はありませんでした。2016年の参議院選挙の野党共闘が本格化し、民進党になった後の衆議院選挙に向けても共産党を含めた野党共闘の流れが加速しました。

2017年に安保法制違憲論に舵を切った民進党を離れ、希望の党を立ち上げたのは、現実主義的な安全保障政策を実現できない政党に政権を担う資格はないと考えたからです。過ちを繰り返してはならないと考えた行動でしたが、民進党からの合流によって希望の党の理念はあいまいなものとなりました。

国民は野党第一党として立憲民主党を選び、希望の党は解党するに至りました。政治家である限り、国民の判断は厳粛に受け止めなければなりません。総選挙の後、私に残された選択肢は二つ。

政治家を辞めるか、自民党入りを目指すか

40代後半に差し掛かり、私は人生最大の岐路に立たされました。熟慮に熟慮を重ね、自らの政治理念を実現するために自民党入りを目指すという結論に至りました。

静岡5区の代表として。そして福島のために

政治家として石にかじりついても実現したいことが二つあります。一つは福島の復興です。福島の復興を考えた時に、大きな障害になっているのが処理水の問題です。原発の敷地内の処理水タンクを置くスペースは、2年後に限界に達します。タイムリミットは迫っています。福島の復興のためにも、何としてもこの問題を解決したいと思っています。

そして最後に地元のことです。どこの馬の骨とも分からない落下傘候補からスタートし、選挙区で政治家として育てて頂き、間もなく働き盛りの50代に突入します。落下傘候補が選挙区で勝ち続けられたのは、一重にご縁に恵まれたからです。少しでも地元に恩返しがしたい、役に立ちたいという思いは年々強くなっています。

危機にあって、選挙区の皆さんを守るために体を張って働くことのは政治家の本分です。コロナ禍にあって地元の医療を守ることで地域の皆さんの不安に応えるべく全力を尽くしてきました。静岡県東部の重点医療機関の一つとなった富士市立中央病院の体制整備と経営環境について、厚生労働省の担当局長と直接交渉しての改善に努めました。

飲食・観光などの産業も壊滅的な打撃を受けています。地域への補助事業や企業への経営支援については、財政支援に全力を尽くしてきました。地域経済への打撃はさらに厳しくなることが予測されます。できることは何でもやるとの決意で取り組んでまいります。

私には、経済産業省、国土交通省、環境省、外務省に原発事故と戦ってきた戦友がいます。また、厚労省、財務省、文科省などには政策の実現に共に汗をかいてきた優秀な人材が数多くいます。コロナ禍において必要な政策の議論を重ねてきた研究者、経営者、文化人も私にとっては大きな財産です。

浮き沈みの激しい議員生活になりましたが、人生をかけて国政に邁進してきました。今、私は政治家人生の剣が峰に立っています。皆様の審判を受け、これまでの経験と人脈を生かして国家国民と地元のために全力を尽くす覚悟です。


編集部より:この記事は、衆議院議員の細野豪志氏(静岡5区、無所属)のnote 2020年9月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は細野豪志オフィシャルブログをご覧ください。