尾崎行雄と重なる一冊:高知東生著「生き直す」

きっかけは、田中紀子さん

日ごろは政治関連の書籍に目を通すことが多いものの、どうしても買い求めたい本がありました。俳優・高知東生さん初の著書「生き直す 私は一人ではない(青志社)

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きっかけはアゴラ寄稿陣でもおなじみ「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さんたまたまツイッターのタイムラインで同書の存在を知り、著者のアカウントにも注目するようになりました。

 

もともと私のツイッターは発信ありきではなく、気になる人のタイムライン受信がもっぱらの使い方です。その中で飛びこんで来たわけですが、面識もご縁もない方ながら、ツイートひとつひとつの熱量が高い。

とかく攻撃的な要素や誹謗中傷がクローズアップされがちなツイッターで、真っ直ぐかつ前向き、読むと何となく元気を分けてもらったような気持ちになる。この人の中から出てくる言葉は一味ちがうと思い、さっそく注文しました。

著作のメインテーマでもある「薬物依存症」にまた、失礼ながらこれまでの芸能活動もほとんど存じ上げていなかった。よくも悪くも先入観ゼロの状態で書籍を手にしたのでした。

私が唸ったポイントと、浮かび上がった方程式

ネタバレは本意でないので内容の詳細については割愛しますが、著者が苦しんだ薬物依存とその克服、さらにその先にあるものは、病理あるいは未完という点で政治にも相通じるものがあります。

たとえば「まえがき」にはこんな一節があります。

「依存症に完治はありませんが、これは不思議な病気で、回復し続けるためには、同じ依存症に苦しむ仲間たちを助けていく必要があるのです。「助けるものが、助けられる」そんな原理で回復し続けられる病気なのです。」(同書5頁)

一見禅問答のようにも見えますが、「天はみずから助くる者を助の序文で有名なスマイルズの「自助論」を連想させます。引用されているわけではありません、おそらくこれまでの経験がそうした気づきに導いてくれたのでしょう。その境地に至るまでは複雑な出自や家庭環境や母親の自死、そして逮捕など多くの喪失があるわけですが、「喪うことで見えてくる」、そうした普遍的なテーマが分かりやすい文体で描かれています。

一方でシリアスなばかりでなく、著者の伴走者としての田中さんが見せる良い意味での遠慮のなさに読者も救われます。著者の傷口に塩を塗るどころか、これでもかと練りこみまくる。ご本人には申し訳ないと思いつつも、痛快ですらあります。

立ち読みで終わらせず、ぜひ買い求めていただきたい。こうした一連のプロセスだけでも買い求める価値がありますし、なぜ高知さんのツイッターがフォロワーを引き付けるのかも何となく見えてきたような気がします。こんな方程式が浮かびました。

本人の経験×気づき+よき伴走者=現在のツイッター

本人の本気や覚悟といったものが、言葉に熱を宿す。政治の世界も大いに学ぶべき点です。

高知さんへのメッセージ。

「人生の本舞台は常に将来に在り」

永田町1丁目1番地1号、憲政記念館。そのエントランスには「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄の揮毫が来館者を迎えます。

「人生の本舞台は常に将来に在り」と彫られているのですが、この言葉を引用するのはある理由からです。尾崎の著作には『人生の本舞台』と題された小品があるのですが、その最終章に「更生をめざす人々へ」という項があります。

過去を清算して新生活に入るためには、新しき決意が必要だ。世間にはこの機会を利用して、色々な善い決心をする人が沢山あると思う。消極的に既往の過ちを改めるのもよいが、積極的に従来以上の努力奮闘をするのもよい。何れをも為さず、因循姑息(いんじゅんこそく)以て従前通りの故轍(こてつ)を践行するのが一番つまらない方法だ。

曰く、昨日までは人生の序幕で、今日以後がその本舞台だと思う事、言い換えれば過去はすべて人生の予備門で、現在以後がその本領だと信ずる事。もっとも適切雅致な言い表し方があるべき筈だが、まだ考えださないから、しばらく斯くのごとき卑俗な文字を以て、私の意思を表しておく。(いずれも『人生の本舞台』62頁)

偶然手にした高知さんの本は、まさに尾崎の言葉を思い出させてくれるものでした。私が財団理事とともに尾崎の復刻を試みたのはこの言葉をふたたび現代に蘇らせたいそう思うがゆえでしたが、なにも尾崎だけのものではないし、また財団の専売特許でもありません。気に留め、振り返ってくださるすべての皆さま一人ひとりのものです。そう思い、書評に代えて高知さんにこの言葉を贈ります。