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受賞したあと、多くの友人・知人・元部下たちから、お祝いの電話やメールをいただいた。この賞の受賞が、いつのまにか、今年のノーベル賞候補という報道に変わってしまっているのは驚きだ。
2000回以上引用される論文は全論文の0.01%程度だそうだが、私は2000回以上引用された論文が9報、1000回以上引用された論文がさらに9報ある。この観点では医学の進歩に貢献してきたという自負はある。
しかし、ノーベル賞というのは独創的な発想が重要視される賞であるのに対して、私の研究成果は、考えるだけでうんざりするような道を、しかし、多くの人にとって重要で必要な舗装道路を作る作業を、多くの支援に支えられてコツコツと歩き続けてきた成果である。
したがって、世間が一気にノーベル賞候補と大騒ぎするような成果ではないと自分では思っているし、私自身は昨日の私と何ら変わりない。
10月5日のノーベル医学・生理学賞の発表時にどこにいるのか、とがん研究所に問い合わせてきているメディアもあるようだが、いつどこにいようが私の自由だろう!引用栄誉賞をいただいたことは光栄だが、これまでやってきたことが、突然変わった訳でもないのに、この騒ぎは異様に思う。
「中村先生の業績を教えてくださいと」とストレートに言ってくるメディア関係者さえいる。この程度の取材力でよく報道に携わっているのかと言いたい。こんな人たちの相手に、少し、くたびれてきた。
私は、外科医をしていた時に体験した個々の患者さんの差を解き明かすために、遺伝子・ゲノムという道を選んで歩いてきた。1990年に国際ゲノム計画が始まるきっかけとなったのが、White-Nakamuraマーカーによる遺伝性疾患の染色体マッピングである。
1999年に、ある研究者から、「ゲノムのような流行を追う学問をするな」と言われて心が折れたことがある。日本人はゲノム研究の歴史を知らない。私は流行を追いかけてきたのではなく、ゲノムという研究分野を開拓してきた一人である。特に医学分野での世界のゲノム研究をけん引してきたという誇りがある。
ただ、自分に対する誇りと、名誉欲とは少し違う。1990年代の私に名誉欲がなかったと言えばうそになる。しかし、母の大腸がん発見から死に至るまでの1年間で、私の気持ちは完全に変わってしまった。自分が大腸がんに罹患しながらも、大腸がん研究を続けてきた私の名誉を傷つけたのではないかと案じ、私に謝った母の言葉は衝撃的であった。
そして、亡くなる前々日・前日(土曜日と日曜日)に大阪を訪ねた私が、火曜日に通産省(経済産業省になる前)で開催される、2000年から開始されるミレニアムゲノムプロジェクトに先立つ会議の話をした。その翌朝、母は静かに息を引き取った。残念ながら、死ぬ瞬間には立ち会えなかった。当時の慣習では、月曜日の夜に通夜、火曜日に葬儀が行われる予定となる。
しかし、母は私が日曜日に東京に戻ったあと、父に「私が死んでも、火曜日には葬式はしないで。祐輔に会議に出てほしい」と言い残していた。死に顔を見ながら、父からその話を聞かされ、号泣した。火曜日、大阪から東京に向かう新幹線から見た富士山は青空なのに霞んで見えた。母の息子への愛情の深さという一言では語れない、私の人生を変えた一言だった。
その瞬間から、名誉という欲が消え去ったように思う。患者さんのために何ができるのか、そんな研究をしたいという思いだけが残った。その後、いくつかの賞をいただいたが、光栄だとは思ったが、喜びはあまり湧かなかった。
今回も、この遺伝子多様性という分野に光が当たったことは日本という国のためにはよかったとは思うが、賞をいただいた喜びという感情はあまり湧かない。もちろん、一部のメディアが騒いでいるような賞が欲しいという感情も全く存在しない。
生まれた時は裸だし、死んでしまえば骨が残るだけだ。死にゆく瞬間に、自分が世の中の役に立ったと思えれば、それでいい。
編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2020年9月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。